昨日は東八事の名古屋教区の墓地で合同慰霊祭がありました。
お墓の草抜きをしたり、遺族の方々が、墓石を洗ったりしている中、
一つひとつのお墓でお祈りをしていますが、本当にお年寄りが多いなあという印象でした。
皆さん手を合わせて一緒にお祈りしました。

吉田兼好の「ただ、今の一念」ということを思いつつお話をさせて頂きました。
吉田兼好は徒然草の中で、次のように言います。
我等が生死(しょうじ)の到来、ただ今にもやあらん。それを忘れて、物見て日を暮らす。愚かなる事はなほまさりたるものを。(第41段)
この後、徒然草でもっとも印象的な言葉、「死は、前よりしも来たらず、かねて後ろに迫れり」が続きます。

この部分を解説して立川昭二氏は次のように言います。
私たちはふつう、死というものは前方からやってくると考えている。しかも人は死ぬことを知りながら、切迫した気持ちで待ち受けていない。だから「覚えずして来る(不意に到来する)」。しかし、死はじつは、いつの間にか背後にピタッとはりついていたのである。生の背後に死がひそんでいたのである。私たちは死の中で生き存在しているのである。
パスカルはこの状況を人間は直視するのが怖いために、ひたすら目をそらし、「気晴らし」に耽ると言います。
では、この状況すなわち死の中で生きている私たちはどの様に生きたらいいのでしょうか。

兼行は「ただ今の一念、空しく過ぐる事を惜しむべし」と言います。何時死ぬか分からないから今日を、今の出会いを大切に丁寧に生きよと言うのです。

立川庄司氏は「生から死を見るのではない。死から生を見るのである。生は生によって輝くのではない。生は死の側から照らすことによってはじめて輝くのである」と解説します。

この事情を「人生を出口から見る」とわたしは申し上げました。ラテン語のメメント・モリ(MEMENTO MORI)は「死ぬことを覚えていよ」という意味です。アウシュビッツから生還した精神科医ヴィクトル・フランクルは「一度死んで二度目の人生を生きていると思って今日を生きよ」と言っています。
この「人生を出口から見る」時に自戒することの多い生き方をわたしもしているなあと思いつつお話しさせて頂きました。