昨日は韓国の103聖人殉教者のミサを教区センターで行いました。大変大勢の信者の皆さんが共に祝いました。殉教者は韓国では非常に大切にされています。どこの殉教地もよく整備され、花が供えられています。苦しみの中で信仰を守り続けた人々に思いをはせました。
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切頭山殉教聖地

韓国103聖人殉教者について
 アンドレア金大建(きむでごん)、パウロ丁夏祥(ちょんはさん)ほか、フランス人宣教師10名、信徒91名を含む韓国教会の聖人殉教者(祝日9月20日)を指します。
 1984年5月6日、韓国カトリック教会創設200周年に初めて訪韓した教皇ヨハネ・パウロ2世によって、ソウル汝矣島(よいどう)広場で列聖されました。列聖式がヴァティカン外で挙行され、また一度に103人の聖人が誕生したことは教会史上初のことです。
 韓国教会は1784年の誕生直後から、100年近くの間10回にわたる大小の迫害を受け、1万余名の殉教者を輩出しました。そのうち103名が列聖されましたが、これらの人々は1839年の己亥迫害および1846年の丙午迫害時の殉教者79人、1866年の丙寅迫害時の殉教者24人に大別されます。
殉教者たちについて
 処刑方法は、斬首刑が最も多く、次に絞首刑、残りは 病死、餓死、杖死などの獄死でした。なかでも極刑は、いわゆる国事犯に適用される軍門鳥首でしたが、聖職者は全員、また5名の信徒もこの刑を受けて殉教しています。殉教地別では、地方で殉教した15名を除けば、全員がソウルで殉教しました。年齢別では最年少者が13歳、最高齢者が78歳。40代が30名で最も多く、次に50代23名、30代20名、20代19名、10代4名、60代4名、70代3名です。身分別では、両班、中人、常民、賎民すべてが含まれており、職業も官吏、軍人、商人、職人、農夫、宮女など多様でした。生活水準は大部分が貧しかったですが、富んだ者もいました。
 彼らの信仰歴をみますと、すでに先祖からカトリック信仰をもっていましたが、カトリックの家庭出身が47名、そのなかで16名は殉教者の子孫です。44名は改宗者として大部分が中年になって入信し、残り2名は受洗前に捕まり、殉教の直前に獄中で洗礼を受けました。
 教会の活動面でみますと、宣教師たちの腹心ともいえる20余名の伝道士と奉仕者たちが目立っています。彼らは宣教師が不在のときは教会の一致を維持し、聖職者招請に主導的な役割を果たし、宣教師を迎え入れた後には、信徒の教育と非キリスト者たちに対する宣教を始め、宣教師に韓国語を教え、教理善を翻訳し編集するなど、教会のすべての仕事において宣教師を献身的に補佐しました。
 殉教者たちは男女を問わず祈りと黙想、霊的読書、断食、施しを通して自身の聖化とともに殉教に備え、他方で、非キリスト者には宣教し、信徒には教え諭しました。
 また貧しい者と病者を訪問し、死の危険にある幼児には洗礼を授けました。さらに獄中にある信者たちの世話をし、殉教者たちの行跡を蒐集し、彼らの死体を受け取り葬るなどしました。
殉教の原因
 殉教の最も大きな理由は、カトリックの教えが李氏朝鮮政府によって「無父無君」の宗教、すなわち君主を蔑視するとみなされていたところにありました。
 当時の朝鮮社会では、儒教の理念から、君主に対する絶対的忠誠が不動の国民道徳として要求されていました。ところがカトリック信者は、カトリックを迫害する国王に対して服従を拒否し、その結果カトリックは 「無君」の宗教と焔印を押されることになります。それゆえ、韓国の殉教者たちの殉教は何よりもまず、キリスト教の唯一神に対する最高の忠誠と愛の表示であると同時に、最大の証言でもあります。また、殉教者たちは国家側の迫害だけでは なく、家族からの迫害にも打ち勝たねばなりませんでしたが、家父長権の強い当時の儒教的家族制度では、それは極めて困難なことでした。残酷な拷問には打ち勝ちながら、肉親の情に屈服し、背教した者たちも多かったです。韓国の殉教者たちにとって神に対する最高の忠誠は、多くの場合、家族との自然な愛情を断ちうるか否かにかかっていたといってもよいでしょう。しかし、このような自然な情愛が克服され、超自然的な愛に昇華されますと、かえって同じ一つの家族のなかから多くの殉教者を生み出す結果となりました。一つの家族から何名もの殉教者が提出していることは、韓国の殉教者たちの特徴の一つとみなすことができます。殉教者のなかには、夫婦が6組、父と息子が3組、父と娘が2組、母と娘が4組、兄弟姉妹が9組もいます。また、3名の殉教聖人を出した家族が一つ、4名を出した家族が二つですが、許季任のように5名の殉教聖人を出した家族もあります。
カトリック大辞典より