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聖墳墓教会
イエスの墓のある教会。内部にはチャペルがたくさんあり、カトリック、アルメニア、コプト、ギリシア正教などの各派が区分管理しています。
十字架を背負い歩き、たどり着いたゴルゴタの丘。イエスは叫ぶ。
「我が神よ。なぜ私をお見捨てになったのですか。」
そしてついに息をひきとる。その時神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。

今日はカトリック教会が一年間で唯一ミサを行わない日です。主イエス・キリストの受難を記念するからです。

 古代エルサレムでは、聖木曜日の夜はオリーブ山に集まって祈り明かした人が多かったようです。皆は、明け方になってから町に帰り、ゴルゴタの丘の上に立てられた十字架堂に集まって、受難の朗読をピラトの尋問のところまで聞き、その後、昼まで十字架の遺物の崇敬を行いました。正午から三時までは、その日に適した聖書の朗読に耳を傾け、さらに、疲れを知らない元気な人はその夜も復活堂にあつまり、主の復活に希望を持って祈ったといわれています。
 きょうの典礼は、このようなエルサレムの習慣から発展したものですが、キリストの受難と死を単に時間的な順を追って再現しようとするのではなく、人類の救いの歴史全体におけるその意義を思い起こし、復活への希望をもって主の十字架の勝利を賛美するものとなっています。
 主の死は、過越の途上にあった出来事ですから、この日はミサ(主の過越の記念祭儀)を行いませんが、聖体拝領を共にして、復活への希望を新たにします。

 祭壇は昨晩主の晩餐のミサの後すべてのものが取り払われています。十字架もろうそくも置かず、祭壇布も掛けません。キリストの死のかたどりです。入祭の歌も歌わず、いきなり集会祈願から始まります。

第一朗読は、イザヤ52章から53章の苦しむ僕の歌が朗読されます。イスラエルの民の罪を負って苦しむ僕の姿にイエス・キリストご自身の受難を黙想します。
彼は軽蔑され、人々に見捨てられ
多くの痛みを負い、病を知っている。
彼はわたしたちに顔を隠し
わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。
彼が担ったのはわたしたちの病
彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに
わたしたちは思っていた
神の手にかかり、打たれたから
彼は苦しんでいるのだ、と。
彼が刺し貫かれたのは
わたしたちの背きのためであり
彼が打ち砕かれたのは
わたしたちの咎のためであった。
彼の受けた懲らしめによって
わたしたちに平和が与えられ
彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。
第二朗読はヘブライ人への手紙です。
キリストは肉において生きておられたとき、激しい叫びをあげ、涙を流しながら、ご自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度の故に聞き入れられました。キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。そして、完全なものとなられたので、ご自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となったのです。'''
ヨハネによる主イエス・キリストの受難が朗読劇のように典礼の中で朗読されます。
群衆の「殺せ。殺せ。十字架につけろ。」は全会衆が大きな声で叫びます。

朗読の後簡単な説教があり、その後10の盛式共同祈願があります。
その中では、教会のために祈りますが、キリスト者の一致のため、ユダヤ教の人のため、キリストを信じない人のため、神を信じない人のため、さらに困難に直面する人のためにも祈ります。
ガザやヨルダン川西岸地方のイスラエルが作った壁に押しつぶされようとする卵たちのために祈りたいと思います。
盛式共同祈願の後には、十字架の礼拝があります。
「見よ、キリストの十字架、世の救い」と司祭が十字架を持ち上げて歌うと、
会衆は「ともにあがめたたえよう」と答えます。
その後十字架を安置して礼拝を致します。
この後、聖体拝領が行われますが、祭壇は聖木曜日のミサ後と同じようにすべての装飾が取り払われます。
会衆のための祈願
いつくしみ深い神よ、御ひとり子の死を来円し、復活の希望を新たにした民の上に豊かな祝福を注ぎ、ゆるしと励ましを与えてください。信仰が強められ、永遠の救いが確かなものとなりますように。
わたしたちの主イエス・キリストによって。
アーメン。