今日から四旬節です。典礼暦の規定はつぎのように述べます。
27 四旬節は、復活の祭儀を準備するために設けられている。四旬節の典礼によって、洗礼志願者はキリスト教入信の諸段階を通して、また、信者はすでに受けた洗礼の記念と償いの業を通して、過越の神秘の祭儀に備えるのである。

28 四旬節は、灰の水曜日に始まり、主の晩餐の夕べのミサの前まで続く。四旬節の初めから復活徹夜祭まで「アレルヤ」は唱えない。

29 四旬節の初めに当たる水曜日は、どこでも断食の日とされ、その日に灰の式が行われる。

30 四旬節の主日は、四旬節第1、第2、第3、第4、第5主日と呼ぶ。聖週間の始まる第6の主日は、「受難の主日(枝の主日)」という。

31 聖週間は、救い主キリストのエルサレム入城に始まる受難の追憶に向けられている。聖週間の木曜日の朝、司教は、その司祭団と共同司式ミサを行って油を祝福し、香油を聖別する。

今日は四旬節の開始に当たる灰の水曜日です。この日にカトリック教会では灰の式をします。司祭は灰を祝福し、その灰を頭か額にかけます。

灰の祝福
皆さん、回心のしるしとして私たちが頭に受けるこの灰を、神である父が祝福してくださるよう、心から祈りましょう。

全能の神よ、あなたは、罪人の死ではなく回心を望まれます。わたしたちの祈りをいつくしみ深く聞き入れ、この灰を祝福してください。土からでて土に帰って行くわたしたちが、四旬節の務めに励み、罪のゆるしを受けて新しいいのちを得、復活された御子の姿にあやかることができますように。わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

続いて司祭は、一人ひとりの頭か額に灰をかける。そのとき、「あなたはちりであり、ちりに帰って行くのです」と唱える。

この灰はイエスのエルサレム入城に際して、群衆がイエスに対して「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」と叫んだことを記念する枝の主日(四旬節第6主日)に信者一人ひとりに配られる枝を集めて焼いて作ります。それは大変意味深いことのように思えます。拍手喝采した群衆は、イエスの逮捕後は、「十字架につけよ」叫ぶのです。この軽薄な群衆とはわたしたち自身なのです。

灰をかぶり、荒布を身にまとうことは旧約聖書では悔い改めのしるしでした。

キリスト教会が誕生した後も洗礼を受けて神の子になったはずの信者が大きな罪を犯したときには、教会の前庭で荒布を身にまとい、自分の前を通る仲間の信者から頭に灰をかけてもらったという記録があります。

ところでこの灰に関連することで哲学者の鷲田清一先生がつぎのような興味深いことを言っています。
英語のhumanという語は、フムスhumusという、地面とか腐植土を意味するラテン語からきている。人間はこの地上の被造物であるということでヒューマニティhumanityと呼ばれる。よくいた単語に、ヒューミリティhumilityがある。謙虚さという意味だ。じつは、これもまたhumusを語源としている。こちらは、地面に近い、それほど低いということから謙虚の意になる。慎ましやさかとともに、なさけない、卑しい、みすぼらしいを意味するハンブルhumbleも、やはりhumusu(腐植土)を語源としている。あくまでみずからの存在の低さにあきれるそういう苦笑の中で、ホスピタブルでありたいと思う。苦悩により「ゆたかな」いみを求めるような「苦しみ」の概念にはやはり抵抗がある。荷物が重くて喘いでいるひとの荷物を半分持ってあげるように、他者の苦しみをいわば半分わかち持つこと──シンパシーはもともと「ともに苦しむ」といういみである──、ホスピタリティのこのような概念には、「何かお手伝いできることがありますか?」(Can I help you?)といった軽いことばをむしろ対応させてみたい。

謙遜であるとは自分の出自がちり(humus)であることをわきまえることです。
それは自分がやがてちりに戻ることをわきまえることでもあります。
思い上がり(suberbia)は、地べたに張り付いている身をわきまえずに、空中俯瞰的(神の視座)にものを見ることができるという思い込みから生じます。

今日頭に灰を頂くわたしたちは、自分がちりに過ぎないことを思い知らなければなりません。

わたしたちの死亡率は100%なのだから。