前作「パッチギ!」から6年後、アンソン一家は難病にかかった息子チャンスの治療のため東京に引っ越してくる。治療費を稼ぐため妹キョンジャは芸能界入り、アンソンは元国鉄マンの佐藤と親しくなり、危ない仕事に手を染め始める。
井筒監督の二言多いダイアローグが健在な熱い作品である。現場の熱気が伝わってくる。それがツッコミ所満載のストーリーをカバーして余りある。
マルケンさんの言うロングで見た喜劇として鳥瞰できる時期になったからこそ、物語は再度クローズアップして悲劇にも喜劇にも描出できる。
逃げろ!生き延びろ!のメッセージは伝わる。在日の不法行為は戦前も戦後も同じ。小生のようにケンカの弱い小心者には官憲に対して逆ギレなんかできるはずがないが。
筆者は、先祖が軍からの脱走という違法行為を犯したおかげで自分たちは在るのだから、現在も軽犯罪など茶飯事だという解釈は納得できない。息子を生かすためなら犯罪もやってのける父親の暴走には同情できても。
さらに、「ゴッドファーザーpartⅡ」ノリで行くなら、戦時中のパートは米軍の無差別爆撃の悲惨さと戦力の格差を描いた上で、徴用され隊列に加わるアンソンの祖父がやむなく敵前逃亡する瞬間を、現代パートにおけるキョンジャのクライマックスに重ねるのが妥当なのではないか?
気になるのは物語内の問題はほとんど解決されないまま終わってしまうこと。ラストシーンはアンソン一家以外無人のグラウンドで家族の情景をクローズアップしているが、ロングではどう映るかが観客個々に委ねられる。諸氏の感想を聞きたい部分だ。
そして、巷間言われている「俺は、君のためにこそ死にに行く」との軋轢云々だが、前述のとおり全く違う土俵なので隣接させようがない、特攻隊との違いは葛藤の中から集団にたいしていかに個を馴致させるか、と、葛藤のなかから集団にたいしていかに個を反発させ、屹立させるか、くらいか(あー意味ねー)。
あえて共通点を見出せば、
それにしても皆さん勇敢に戦っておられる。逃亡も戦いの部分集合である。カッコ悪かろうが守るものがあるのだから皆カッコイイ…本当に?
カッコ悪い小心者でいること、卑怯者と蔑まれようが弱虫でいることが、戦いを回避し、生き残る最も遠回りで唯一の道なのかもしれない。
誰のお陰で豊かさと平和を享受できているのか?との問いに、筆者は(逃亡も含めて)勇敢に戦った先祖がいたからだという謂れには抗すまい。ただ、時の為政者に唯々諾々と従いながら、面従腹背に、例えば戦時中なら報国婦人会で竹槍でB29を墜とせと息巻き、昭和20年8月15日を境に我先にとヤミ米へ走るゴキブリ的生命力を持った弱虫日本人(含弱虫在日)こそが最大多数派なのだと答えよう。
さて、弱虫であることの大切さを描いた近作といえば…『ハウルの動く城』があった。
妄想はふくらむ。「俺は、君のためにこそ死にに行く」と「パッチギ!LOVE&PEACE」両方に欠けている。もしく描きそこねているのが聖穢観だ。
「俺は、君のためにこそ死にに行く」の作者には、戦後、犬死にというレッテルを貼りに抗うなら犬死にを聖なるものへと美しく昇華させる装置を解体し(またはしそこね)、再構築する作品を期待したい。大西瀧治郎中将が自決して終わりだなんて思う観客はおるまい。
さらに飛躍して、右翼が左翼に対抗する作品を新作するとなると、近未来右翼革命SFしかないと思うのだが(「皇帝のいない8月」じゃなくて「ガサラキ」とか)。(「攻殻機動隊」については稿を改める)でも、「226」がアレじゃあなあ…。
「パッチギ!LOVE&PEACE」の作者には、作品中の在日の浅慮は相変わらずだが、次は逆差別の構図が利権化するなか、例えばパチンコ屋経営で成功したガンジャ(前作のスケバン看護婦)の成長した姿と、右翼になる在日の若者、9.17における苦悩と在日利権構造へのパッチギを期待したい。さらにさらに李鳳宇プロデューサーにはキム・ギドク監督で中上健次原作の映画化をやってほしい。
とまあ、暴走してしまいました。乱筆雑文御免。
井筒監督の二言多いダイアローグが健在な熱い作品である。現場の熱気が伝わってくる。それがツッコミ所満載のストーリーをカバーして余りある。
マルケンさんの言うロングで見た喜劇として鳥瞰できる時期になったからこそ、物語は再度クローズアップして悲劇にも喜劇にも描出できる。
逃げろ!生き延びろ!のメッセージは伝わる。在日の不法行為は戦前も戦後も同じ。小生のようにケンカの弱い小心者には官憲に対して逆ギレなんかできるはずがないが。
筆者は、先祖が軍からの脱走という違法行為を犯したおかげで自分たちは在るのだから、現在も軽犯罪など茶飯事だという解釈は納得できない。息子を生かすためなら犯罪もやってのける父親の暴走には同情できても。
さらに、「ゴッドファーザーpartⅡ」ノリで行くなら、戦時中のパートは米軍の無差別爆撃の悲惨さと戦力の格差を描いた上で、徴用され隊列に加わるアンソンの祖父がやむなく敵前逃亡する瞬間を、現代パートにおけるキョンジャのクライマックスに重ねるのが妥当なのではないか?
気になるのは物語内の問題はほとんど解決されないまま終わってしまうこと。ラストシーンはアンソン一家以外無人のグラウンドで家族の情景をクローズアップしているが、ロングではどう映るかが観客個々に委ねられる。諸氏の感想を聞きたい部分だ。
そして、巷間言われている「俺は、君のためにこそ死にに行く」との軋轢云々だが、前述のとおり全く違う土俵なので隣接させようがない、特攻隊との違いは葛藤の中から集団にたいしていかに個を馴致させるか、と、葛藤のなかから集団にたいしていかに個を反発させ、屹立させるか、くらいか(あー意味ねー)。
あえて共通点を見出せば、
それにしても皆さん勇敢に戦っておられる。逃亡も戦いの部分集合である。カッコ悪かろうが守るものがあるのだから皆カッコイイ…本当に?
カッコ悪い小心者でいること、卑怯者と蔑まれようが弱虫でいることが、戦いを回避し、生き残る最も遠回りで唯一の道なのかもしれない。
誰のお陰で豊かさと平和を享受できているのか?との問いに、筆者は(逃亡も含めて)勇敢に戦った先祖がいたからだという謂れには抗すまい。ただ、時の為政者に唯々諾々と従いながら、面従腹背に、例えば戦時中なら報国婦人会で竹槍でB29を墜とせと息巻き、昭和20年8月15日を境に我先にとヤミ米へ走るゴキブリ的生命力を持った弱虫日本人(含弱虫在日)こそが最大多数派なのだと答えよう。
さて、弱虫であることの大切さを描いた近作といえば…『ハウルの動く城』があった。
妄想はふくらむ。「俺は、君のためにこそ死にに行く」と「パッチギ!LOVE&PEACE」両方に欠けている。もしく描きそこねているのが聖穢観だ。
「俺は、君のためにこそ死にに行く」の作者には、戦後、犬死にというレッテルを貼りに抗うなら犬死にを聖なるものへと美しく昇華させる装置を解体し(またはしそこね)、再構築する作品を期待したい。大西瀧治郎中将が自決して終わりだなんて思う観客はおるまい。
さらに飛躍して、右翼が左翼に対抗する作品を新作するとなると、近未来右翼革命SFしかないと思うのだが(「皇帝のいない8月」じゃなくて「ガサラキ」とか)。(「攻殻機動隊」については稿を改める)でも、「226」がアレじゃあなあ…。
「パッチギ!LOVE&PEACE」の作者には、作品中の在日の浅慮は相変わらずだが、次は逆差別の構図が利権化するなか、例えばパチンコ屋経営で成功したガンジャ(前作のスケバン看護婦)の成長した姿と、右翼になる在日の若者、9.17における苦悩と在日利権構造へのパッチギを期待したい。さらにさらに李鳳宇プロデューサーにはキム・ギドク監督で中上健次原作の映画化をやってほしい。
とまあ、暴走してしまいました。乱筆雑文御免。