「他人のために生きることはできるだろうか?」
『ユリイカ』でのセリフを私たちはどんな時に言うことがあるだろうか?ま、フツーは「何イキがってんだ」と一蹴されておしまいだ。生涯口にすることのない人も大勢いることだろう。高僧の法話とか、功成り名を遂げた一廉の人物の講演で聞くことはあっても、そうそう言えるものではない。場がないと。
対話の場合なら、話す相手がどんな人格かというよりも、そこまで関係を深めることができているかどうかが、かかる文言を述べる機会があるかないか、もしくは頻度の高低をはかる物差しとなろう。
生き様を晒け出しあい、傷付け合うことを包摂しつつコミュニケーションを重ね、築いた絆があってはじめて成り立つ文脈なのだ。その過程があったからこそのセリフなのだから『ユリイカ』はこの長さになった。
「サッドヴァケイション」ではその絆を(疑似)家族としての関係に求める。物語中に出てくる間宮運送なるコミューンでは「人に偶然はない、合うべき人に合う」をはじめとして、絆が築き上げられていないと出てこない文言が頻出する。私が唐突に感じても、登場人物はそう感じていないという説得力が与えられている。それは若戸大橋のたもとや磁石が回転する台地が世界の隅(もしくは異世界)を想起させる場面設定の妙とも相まっている。
そして、中上健次好きにはこたえられないのが石田えりの母性とメスとしての存在感。周囲に見捨てられた過去を持つ者たちが吹き溜まる此岸と彼岸の間としての「場」に身を置いて培われた母の達観を、『小早川家の秋』のラストのセリフに重ねてしまう。以前本ブログで「ボルベール」について触れたが、あれは国ごと見捨てられた過去を持つ女たちの物語だった。そもそも国なんてあんのか、ラスト、ヤクザが間宮運送に押しかけオダギリジョー扮する従業員を出せと迫る中、「これでもくらえ」ってなもんだ。男ってまったく。
作者曰く「『枯木灘』を裏返した」とのことだが、これについては疑問。語り出すと私ごときの文章力では到底書けない。酔っぱらって放送禁止用語連発になってしまう。
え?カッコつけんなって?痛いところ突くなあ!じゃあちょっとだけ言うよ。
母性のもつ凶暴さやモンスターとしての母の存在を描出する点では見事に成功している。では母性と父性、女性器と男性器のもつ「やさしさ」を描いて、そのことがもたらす悲喜劇は出来ないか?本作の後でもいい。ロマンポルノで随分やってたじゃないかと言われそうだが、中上健次ワールドで描き切れたのはまだ見ていない。何しろこの設定では主役が存在感で圧倒するばかりで生き生きしていたのは脇役ばかりになってしまいがち。崔洋一監督なら可能かも。
ギリシア悲劇や聖書云々についてはまたの機会に(こればっかですまん)。
とまあ、今年の重要な作品である。
『ユリイカ』でのセリフを私たちはどんな時に言うことがあるだろうか?ま、フツーは「何イキがってんだ」と一蹴されておしまいだ。生涯口にすることのない人も大勢いることだろう。高僧の法話とか、功成り名を遂げた一廉の人物の講演で聞くことはあっても、そうそう言えるものではない。場がないと。
対話の場合なら、話す相手がどんな人格かというよりも、そこまで関係を深めることができているかどうかが、かかる文言を述べる機会があるかないか、もしくは頻度の高低をはかる物差しとなろう。
生き様を晒け出しあい、傷付け合うことを包摂しつつコミュニケーションを重ね、築いた絆があってはじめて成り立つ文脈なのだ。その過程があったからこそのセリフなのだから『ユリイカ』はこの長さになった。
「サッドヴァケイション」ではその絆を(疑似)家族としての関係に求める。物語中に出てくる間宮運送なるコミューンでは「人に偶然はない、合うべき人に合う」をはじめとして、絆が築き上げられていないと出てこない文言が頻出する。私が唐突に感じても、登場人物はそう感じていないという説得力が与えられている。それは若戸大橋のたもとや磁石が回転する台地が世界の隅(もしくは異世界)を想起させる場面設定の妙とも相まっている。
そして、中上健次好きにはこたえられないのが石田えりの母性とメスとしての存在感。周囲に見捨てられた過去を持つ者たちが吹き溜まる此岸と彼岸の間としての「場」に身を置いて培われた母の達観を、『小早川家の秋』のラストのセリフに重ねてしまう。以前本ブログで「ボルベール」について触れたが、あれは国ごと見捨てられた過去を持つ女たちの物語だった。そもそも国なんてあんのか、ラスト、ヤクザが間宮運送に押しかけオダギリジョー扮する従業員を出せと迫る中、「これでもくらえ」ってなもんだ。男ってまったく。
作者曰く「『枯木灘』を裏返した」とのことだが、これについては疑問。語り出すと私ごときの文章力では到底書けない。酔っぱらって放送禁止用語連発になってしまう。
え?カッコつけんなって?痛いところ突くなあ!じゃあちょっとだけ言うよ。
母性のもつ凶暴さやモンスターとしての母の存在を描出する点では見事に成功している。では母性と父性、女性器と男性器のもつ「やさしさ」を描いて、そのことがもたらす悲喜劇は出来ないか?本作の後でもいい。ロマンポルノで随分やってたじゃないかと言われそうだが、中上健次ワールドで描き切れたのはまだ見ていない。何しろこの設定では主役が存在感で圧倒するばかりで生き生きしていたのは脇役ばかりになってしまいがち。崔洋一監督なら可能かも。
ギリシア悲劇や聖書云々についてはまたの機会に(こればっかですまん)。
とまあ、今年の重要な作品である。