こんにちは。
どーも、ひさしぶり。
『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』ですね。
実は感想なんてねーんだ。
いきなり終わりかよ!
冗談。ま、ヘルメットとゲバ棒時代が極まった残りカスが線香花火の最後のようにキラリと燃える瞬間ですな。
何が大事件って仲間殺しなんだよ。
これがわからない。僕はどんな時代のどんな閉鎖的な集団や組織でも、それこそ旧帝国陸軍内務班からオウム真理教にいたるまで、内規暴走やミルグラム実験の結果から得られる法則からは逃れられないし、もしタイムマシンでそれら過去の閉鎖集団状況へ放り込まれても、現在の記録通りの行動しかとれないだろう。まして過去の歴史を変えることなどは不可能だと思っている。
いきなり結論かよ!(中略)
序論さ。問題なのはそう思っていた僕でさえ、「実録」と銘打たれたこの作品を観て、もし僕がここにいたら同志殺しに加わっていたかもという可能性は全く感じ取れなかった。
クライマックスのセリフを山岳ベース内での集団の空気がおかしくなるときに「何バカやってんだ!?」と叫ぶってこと?
真っ先に粛清されろっての?やだよ。
タイミングを見計らってとか、空気読んでとかやってた結果はロクなことにならないぜ、特にこの国は。
わかってる。ところで君は事件当時は何してたの?
貨物駅で荷役のバイトやってた。貧乏だったからねー。アンポトウソウやべとなむはんせんなどどこ吹く風。事件当時はテレビを見る余裕などなかったな。新宿騒乱とか何とはなしに耳に入ってはきていたが、遠い世界のこと。職場のおっちゃんは犯人達はアタマが良すぎてヘンになってあんなことやっちまったんだって言ってた。君は?
習い事に明け暮れていたなー。学習塾に、ソロバンに、書道。
おぼっちゃんじゃん。
いやそれが、地方都市の遅れたベビーブーマー世代だからさ、これでも平均的。てことはあさま山荘の中継画面は見なかった?
うん。
僕もだよ。そうか、君も僕もテレビ見なかったんだね。しかし、成長はするよ、反抗期を越えて社会の矛盾に興味を持つ年頃になる。人並みに暴れただろ?
10代半ば?
うん。
いやそれが、どう見ても暴れ方が中途半端なヤツしかいなくてさー。もちろん若者が社会相手に暴れるのは当たり前さ。でも70年代~80年の当時は、ドーナツ化現象に伴う地方都市の拡張、道路の拡幅延伸が盛んで、それを見た知人は暴走族に格好のサーキットを提供するようなものだと皮肉ったものさ。それにたいして、いや、彼らは他人に迷惑をかけるのが楽しい、大人へ反発するのが生き甲斐なのだという反論するものもいたよ。だったらまとめて、新規に建設された広幅道路へ暴走行為をする以前に、広さ的にも格好のサーキットであり、迷惑をかける楽しさという点においても理想的である皇居前での暴走行為が皆無なのは何故なのか?わからなかった。
右翼が怖いから?
バカも休み休み言えっての。ならば暴走行為は大人社会によってつくられたオリの中で暴れる子供の悪戯の域を出ないじゃないの。
『太陽を盗んだ男』での皇居前ゲリラ撮影にたいして、日本中の暴走族が束になっても勝てないよ。
そんなことをしたら社会に出てから総スカン食うだろう。実際長谷川和彦監督は新作を作れずにいるけど。
いや、暴走族って意外と真面目な連中だから。
それがどうした、社会人になったあとのことを考えて族やるんなら最初っからやめちまえと思ってた。
10代でそんなこと考えてたなんてマセてるねー。
君は?
イジメられっこだったからねー。でも不良連中に対しては内心バカにしていた。だって彼らの愛読書が『俺の空』『ハイティーン・ブギ』なんだもの。
ああ、不良や反抗で包装された保守モノね。
今でも『俺の空』と『水戸黄門』の区別がつきませんよ私ゃ。それと不良ではない連中にも「ダメだこりゃ」と感じてた。
どういうこと?
尾崎豊さ。彼が歌えば歌うほど「10代の反乱」をキャッチコピーに潤う大人社会。思慮の未熟な若者があんな自作メッセージソングを絶叫調で歌えば早晩どうなるかは想像がつくだろう。彼に「曲つくりと歌うのをちょっと休んで、ゆっくり考えようぜ」といったファンは寡聞にして知らない。勘違いしないように言うけど思慮が未熟とは思慮が浅いという意味ではないからね。
わかってる。それにしてもまーお互いひねくれてねじ曲がった青春の思潮ですなー。
でも熱くなった時期ではあったね。で、二十歳を越えた時分には君は大学に入って。
大学自治などとっくに有名無実化していたね。それでも醜聞は耳に入ってきてはいたよ。僕たちと同世代のある博士曰く「教授会にすら諮っていない重大事案を理事会が勝手に進めている」とか「学費値上げ闘争はデキレース」などは当然のようにね。
運動などはとっくに解体された後の祭りだった。僕だって騒々しいのは好きだったが、学生運動は社会に対して影響を与えられず、むしろ暴れた学生たちこそが、暴走族上がりやヤンキーがやがて社会の歯車になるように、全共闘世代がホワイトカラーの企業戦士になっていく現象はもう目の当たりにしていた。なんとなれば入試を中止に追い込むのなら最低4年越しで戦い取らねばならないし、大学を解体するために新入生を入れさせない狙いなら、一回で終わるのでは意味がないからだ。正直「この根性なしめ!」と内心さげすんでいた。
そのさげすみを補強する作品なのかもね。
くりかえすけど「もし彼ら革命戦士と同様の生い立ちだったら、同様の状況にいたらどうなっていたか」を何度もシミュレートしてみた。(中略)極限状況に自身をロールプレイする試みを何度もやってみた。しかし、自身の貧しさの故か、イマジネーションが届かなかったのが事実だ。そして、不真面目ながら一方で、何バカやってんだとも見ていた。
作品にたいする勝利宣言?
いや、そうじゃない。スゴイ描写もあるし、実録だけあって必然に裏付けられた構成がドラマに力を与えているのは事実。現場も大変だったろうなとも思うよ、内容からして文化庁の助成金なんて出るワケないし。ただ…
ノレない。
そう!のれないんだ。作品に。僕も君も世界同時革命を信じてなかったからなのか、政府ごとき明日にでもひっくり返してやると本気で息巻くフランス人みたいにレジームチェンジもしくはパラダイムシフトに想像力を働かせることに慣れすぎたのか。
僕は君とはちょっと違って結局、人の上に立つ器ではないものが無理してリーダーやろうなんてするからこのザマになると見た。じゃあ人の上に立つ器ってどんな人格か?先の戦争でロクな連中じゃないってことははっきりしている。「兵は消耗品」なんてほざく奴がレッド・パージで公職に返り咲くくらいなんだから。
有言実行で言動が空回りせず、責任をきちんと取る能力を備えた度量と切り込み隊長を率先してみせる統率力、TPOによっては場の空気に逆らう胆力は広く深い識見に基づいているーそのような当然あってしかるべきリーダーの要件を満たしている人格を、何故選ばなかったのか、または選ばれなかったのか?単純な考えだけど、そういう人間から逮捕されていってしまい、山岳ベースには一流ではない人格しか残っていなかったからなのかな。
さらに最大の疑問が、「運動は学生のお遊び」などの発言からわかるとおり若松監督ほどの事の本質を見抜ける人格ならば、運動や活動の楽しさをあたかも苦行を強いているように描出するのはなぜなのだろう?もちろん事実なのだろうが、メンバー各員は学習や勉強会で各々の自己実現の場を得たはずなのに。加藤弟がベースで合流するときの仲間を迎え入れる暖かさがあったはずなのに。
で、そうやって自分の言葉を失っていくんだよね。
勉強や学習は言葉を失う過程でもあるのかもね。作品の前では何言っても蛇足だけど。ディテールは気にならなかったな。
気にならなかった。それが不思議だ。当時は大学生への普及なんてまだまだだったはずのジーンズがあんなに出てくるのにね。近い過去を舞台にしたやつでディテールにこだわったのって?
『続ALWAYS三丁目の夕日』
遊園地じゃない。懐かしさだけをクローズアップした「ここではない、どこか」なだけでしょ?
まあね。でもアレンジされた原風景ー(この場合は昭和30年代の東京)の引用は映画物語の世界では珍しくない。
問題はその作品世界。もちろん注意深く策定されているんだけど、本編中に登場する。戦前世代で従軍経験のある主人公は戦友の集まりに参加すると、どう見ても二十歳やそこらの戦友と再会し、昔日を懐かしむのだが、実はその戦友は戦死しており、主人公が見たのは幻だったというエピソードが挿入されている。しかし、どうにも本編からは浮いてしまっており木に竹をつないだ感がある。これは本編における、古き良き昭和30年代を、細心の注意をもって考証した設定が、汚濁した、例えば滅私奉公のサラリーマン観や小銭に群がる下町小市民などの「たけしくん、ハイ!」的昭和のリアル人間観となじまないからだ。
その界面を処理する巧みさが作劇技術の見せ所なのにね。
もともと技術のない(というより興味がない)作者はテレビドラマよろしくぶった切ってしまっている。『七人の侍』で農民の一人が隠していた落武者狩りのエモノを菊千代がひけらかし、侍たちの百姓観が一変する場面がある。菊千代の演説(ここって結構アブナイ)で一旦納得するも、それ以後の本編をより真剣に見ずにはいられなくなる。ドラマの雰囲気が一変すると言ってもいい。そのような作劇の力業を求めるのは酷だろうが、造形の迫力がその後まで続く暗さを補って余りある。撮影中も演出が脚本家と打ち合わせるのはホン直しのためだけではない。
コンテ通りに撮れたと喜ぶだけでは監督は演出を完了したことにはならないんだよね。ワンダーランド的人間観とリアル人間観の界面の処理が無いまま、主人公の溜息と苦笑いで済ませている。これは『ALWAYS~』が全編CG を施されていることからくる「リアルなつくりもの」感からくるものだからで、プロデューサーはそこ(界面)にこだわらないといけないのだが。
それなら『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ! オトナ帝国の逆襲』が理想なの?
あの作品のスゴさは今更賞揚するまでもないよ。まとめると気づいたのはリアルなものって、リアルな、またはリアルだと思いこんでいるだけの幻として現出するかもしれないということ。目指さなくてもそのへんにふっと在るかもしれないということ。
それはピーターパンをはじめとしてファンタジーの王道だし、ノレるという点でも幻の方がポイントは上だ。
まさにそのとおりで、そこが問題なんだ。翻って『実録~』では前述のごとくリアリティを感じられなかった。僕も君も。
想像力の限界すら感じた。
うん。だからこそノレる楽しさを発掘しなければならない。『太陽を盗んだ男』は今見ても。
ノレる。
(略)