生きてゆくためには衣食住が必要で、さらにそれらを確保するためにお金が要る。稼いでも限度があるから使うのは計画的に。
こんな当然のことがわかっていない知人がいた。話を聞くと両親から愛情らしい愛情ー叱られたり励まされたり、共に娯楽を楽しんだりの経験がなかった。「あいさつってどうやるの?」と、真顔で尋ねられた。
あまりにも非常識な人間関係についてゆけない観客と、すんなり観てしまう客に大別されるのだろう。かなり以前から試写会が行われていたようだ。
主人公ジュノ程度の変人は誰の周囲でもひとりやふたりは思い当たる存在なのではないだろうか。小生の知人にも、愛読書は般若心経、好きなまんが家は根本敬、絶対音感の持ち主ってのがいた(はい、つっこまない)。
ただ、そこに妊娠・出産がからんでくると話は別だというのが常の考え。それをひょいとかわす、もしくはとびこえる物語。そしてかんがえるのはこのようなストーリーが受け入れられる土壌・社会とはいかなるものなのか?だって生んだ赤ん坊を他人にあげてフォークソング歌ってそして人生は続くってヤツだぜ?
本作曰く、愛情をキープし続けないと結婚生活は破綻する。中絶なんてとんでもない。子供は愛情を注ぐ人の手で育てられるのがベスト。自分の良さを認め受け止めてくれる人を愛しなさい。年頃の女性には愛情の注ぎ所が必要だ。エトセトラ。
もっともだ。
でもここに出てくるのは小生の周囲における常識からはかけ離れた価値観ばかり。
その常識曰く、愛情を失っても齢を重ねれば綾小路きみまろの漫談を笑えるようになる。生まれてくる赤ちゃんより母親を取り巻く今の社会状況。子はかすがい。共に人生の残りカスになってもいい。愛情の注ぎ所の代替物なら市販されている。エトセトラ。
どちらが健全かという判断などできっこない。長い歴史と伝統に裏打ちされた(語弊はかんべん)制度・慣習が違いすぎる。
ただ、共通しているのは人間社会を健全に継続してゆく知恵がそこにあるということだ(健全さの内容についての議論は別の機会に)。
さてそこで、ジュノのような突然変異的な変わり者が現れればどうなるか?時間をかけて関係を構築(あるいは精算)したとはいえ、他人である。その他人に産みたての赤ん坊をあっさり渡せる人格。それでも渡した赤ん坊は冒頭に例示したような人格には絶対に育つまい。いや、ここではジュノのような人格も包摂できる社会を羨ましく見てしまう小生もいたりする。
米国社会において家族(でもカップルでも何でも)を最小の構成単位とした常識が壊れ始めたのはいつごろからか?映画史上では?勉強しよう。
妊娠検診で検査士とジュノの継母がやり合うエピソードは浮いているように見えるが、実は「森を見て木を見ず」批判になっている。それは私たち一人一人が可能な範囲でやればよいことだ。
というわけで、今日も近所のNPOへ差し入れに茶菓子を持ってゆく。
こんな当然のことがわかっていない知人がいた。話を聞くと両親から愛情らしい愛情ー叱られたり励まされたり、共に娯楽を楽しんだりの経験がなかった。「あいさつってどうやるの?」と、真顔で尋ねられた。
あまりにも非常識な人間関係についてゆけない観客と、すんなり観てしまう客に大別されるのだろう。かなり以前から試写会が行われていたようだ。
主人公ジュノ程度の変人は誰の周囲でもひとりやふたりは思い当たる存在なのではないだろうか。小生の知人にも、愛読書は般若心経、好きなまんが家は根本敬、絶対音感の持ち主ってのがいた(はい、つっこまない)。
ただ、そこに妊娠・出産がからんでくると話は別だというのが常の考え。それをひょいとかわす、もしくはとびこえる物語。そしてかんがえるのはこのようなストーリーが受け入れられる土壌・社会とはいかなるものなのか?だって生んだ赤ん坊を他人にあげてフォークソング歌ってそして人生は続くってヤツだぜ?
本作曰く、愛情をキープし続けないと結婚生活は破綻する。中絶なんてとんでもない。子供は愛情を注ぐ人の手で育てられるのがベスト。自分の良さを認め受け止めてくれる人を愛しなさい。年頃の女性には愛情の注ぎ所が必要だ。エトセトラ。
もっともだ。
でもここに出てくるのは小生の周囲における常識からはかけ離れた価値観ばかり。
その常識曰く、愛情を失っても齢を重ねれば綾小路きみまろの漫談を笑えるようになる。生まれてくる赤ちゃんより母親を取り巻く今の社会状況。子はかすがい。共に人生の残りカスになってもいい。愛情の注ぎ所の代替物なら市販されている。エトセトラ。
どちらが健全かという判断などできっこない。長い歴史と伝統に裏打ちされた(語弊はかんべん)制度・慣習が違いすぎる。
ただ、共通しているのは人間社会を健全に継続してゆく知恵がそこにあるということだ(健全さの内容についての議論は別の機会に)。
さてそこで、ジュノのような突然変異的な変わり者が現れればどうなるか?時間をかけて関係を構築(あるいは精算)したとはいえ、他人である。その他人に産みたての赤ん坊をあっさり渡せる人格。それでも渡した赤ん坊は冒頭に例示したような人格には絶対に育つまい。いや、ここではジュノのような人格も包摂できる社会を羨ましく見てしまう小生もいたりする。
米国社会において家族(でもカップルでも何でも)を最小の構成単位とした常識が壊れ始めたのはいつごろからか?映画史上では?勉強しよう。
妊娠検診で検査士とジュノの継母がやり合うエピソードは浮いているように見えるが、実は「森を見て木を見ず」批判になっている。それは私たち一人一人が可能な範囲でやればよいことだ。
というわけで、今日も近所のNPOへ差し入れに茶菓子を持ってゆく。