他者にこれほど興味を示すチルドレンたちはこれまでのエヴァからは考えられなかった。
いきなり最大のネタバラシやってどーすんだよ。それに、他者に興味を示す過程は『序』ですでにほのめかされていたじゃないか。
ごめん。でもこれこそが出発点だと思ったんだ。『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』のさ。
新キャラである真希波・マリ・イラストリアスが(すくなくとも『ヱヴァ:破』中では)いわゆる「壊れていない人格」キャラ(?)として登場することからも、1995年から時間が経っていることは明らかだよね。
壊れていないって?
「問題児」という「健全さ」を備えた真希波・マリ・イラストリアスを取り込んだことだ。
おもしろいからエヴァに乗るって娘かい?まあ自己の壊れた部分との共生なら旧作までにやってるし。
レイ曰く「絆」はそうだね。マリの場合彼女自身の自傷行為っぽいけど。
マリの登場はアレだよね。
裏技まで出すし?
裏コードとか、少年ジャンプ的オチ(あるいはワザ)重ねられてもな。
それもあるけど、普通ならこのような異化効果はシナジーを狙うべきなのにね。
チルドレンがあまりにもあっけなく他者へ興味を持ち始めることにたいする違和感かい?
被注目中毒(造語)のアスカはそのために刻苦勉励の末エースになり、人生経験値が限りなくゼロに近いレイはイエスマンになり、かまってほしいくせに消極的なシンジは周囲に合わせることを選んだ。コレ旧作のことね。
チルドレンが求めていたのは当たり前の愛情であり、リビドーにたいする回答であり、社会からの接遇だった。
それらがないのは何故?にたいする解答がないまま=理不尽にたいする回答を求めても、理不尽が温存され、社会に出てもそれは続く様を目のあたりにしたら、チルドレンのような人間はどう行動するだろうか?
ある者はその理不尽を破壊しようとするだろうし、またあるものは理不尽を解消するため新しい理屈=多くは宗教(教義・理念)を造りだすことだろう。それが実践される段階となると…極めつけはオウム真理教となるのも一例だろうね。で、今や21世紀ではそれぞれの理不尽にたいする手当てとして回答や接遇が用意されているんだけど。
新しく造られた理不尽に裏打ちされた、ね。
堂々巡りだし、飛躍してんなーそれ。思い出すに当時の俺は1995年当時のマスコミがもつ価値観の幼稚さにも愕然とした。宿題は全て完璧に仕上げ、掃除当番をサボったことがなく、無遅刻無欠席のいいんちょモデルに「健全さ」を見てんだもの。
そんなもなあ放っといたって赤字垂れ流し(略)。
かつての塾講師時代、俺は中間期末テスト前の教え子に、該当する学校授業の教科書を基に練成した模擬試験を実施した。
普通だね。
別のあるクラスでは同じく該当する学校授業の教諭が昨年同時期同学年に実施した問題のコピーを使用した。
それもありかもね。
結果は大同小異だったが、テスト対策として正しいのは後者だということがはっきりしたのが1995年という年だったと思う。
要するにウマくやったモン勝ちってことが社会的に正しい=健やかなのだと認められた時点だということかい?
指導要領の外の方が教育世界は広いということさ。
あたりまえじゃんそれ、指導要領(略)
結果、美しい作画で彩られる少年少女残酷物語が、残酷さやトラウマを向こう傷に刻みながらも成長する少年少女群像へと変貌するのは当然の帰結で、『破』はそれらが伴う偽善を排した向こうへいくステップだと思うよ。
そうなると、この新作で普通構成作家が考えるのは、壊れた部分を内包する、他者との接触を拒み続けるアイに飢えた人格=チルドレンたち(語義矛盾は流してくれ)の間に触媒としてマリという健全キャラに狂言回しを演じさせることだろうけど。
それを回避したことについてはギリギリまで悩んだと思うよー。あっこりゃコンテミスだってところもあったし。
中間作だからね、迫力で圧倒するのも選択肢さ。それにわざと良作と言われるのを回避しようとしたのかもしれないし。
(略)
高抽象度かつインパクトのあるイメージから物語を紡ぐ際、印象度の高いイメージを再構成して作品にする手法は昔からあるよ。
と言ってもせいぜい『戦争で死ねなかったお父さんのために』あたりからだろうけど。
1970年代じゃんそれ。構成力におぼれて実際中途半端な仕上がりになったにもかかわらず、素人には貶しづらい作品のことかい?
『刑事ジョン・ブック 目撃者』?
なんたって作ったモン勝ちだから。だから次回作への悩みは大きく、深い。
『スターウォーズ』にならないことを祈ろう。

で、オタクとしてはどうよ。
伍号機がトロリー仕様だったこと?
ここは鉄ヲタの部屋じゃないよ。
昭和を挿入しようとするところが浮いていたけど、『太陽を盗んだ男』のBGを使うのは賛成。あれは高度成長期の行き詰まり感を惹起させるから。おマケにインベーダーゲームまで出してたらやりすぎかな。
いやーしかし風呂敷広げたねー。
広げた広げた。そのうえ逃げ道塞いだ。サードインパクト起こらないし、次回はしばらくシンジとレイは出てこないだろうし。
でもこの作者、前科があるからねー。
「誰もエヴァを止めることはできない」で終わってたのに、次の回じゃ止まってたアレ?
テレビ版の25と26話もね。

変化を最も著しく感じたのが、劇中歌にシーンの悲壮感や悲惨とは180度異なるイメージの曲を使用しても、また思いつきではなく、当初から演出意図として策定されていたのであろう「翼をください」や「今日の日はさようなら」を受け流す観客がそこに居たこと。
マリが「三百六十五歩のマーチ」をくちずさむ前に、製作プロダクションであるカラーの効果音がベータカプセルのそれであることからも、伺い知れる。
作者がウルトラマン好きなんだろ。マットビークルがまんま出てくるし。
それに今回もアレンジされてはいたけど引用が多かった。
そりゃ元々がウルトラマンに人載せるってコンセプトだったからさ。
例えばテレビ版で出てきてた『アンドロメダ…』からの引用、「601」っていう「分析不可能」を表すコードが、今回は水族館(じゃないよねごめん)へ入る際の検疫システムとか。
(略)
昭和後半をやるんなら『夏のあらし!』くらいの芸を見せろよとも言いたいが。
おふざけなら芸で済むんだけど、シリアス路線の物語なら、過去からの引用をディテールに活かすならキャラや設定にも同様の慮りを見せなければ。
例えば?
このあいだのテレビドラマ『刑事一代』を見ると、考証が正確であることと美術・衣装が上出来であることとは別なんだということがよくわかる。
ステテコから透けて見えるサルマタやふんどしのことかい?
いいや、ロクに帰宅もしない仕事中毒な連中が、あんなパリッとしたアイロンかけたての真っ白い開襟シャツのえりを、しかも集団で見せられてはねえ。
カミさんたちがちゃんとしてたんだよ、ってか、リアルじゃないってこと?
少なくとも考証に正確を期することが、時代背景や場面の状況に説得力を持たせることに与していない。ドラマも聞き書きが基だからリアリティとしての迫力はあるんだけど、構成がね。
アタマはいいけど誠実ではないってこと?
主人公平塚刑事の捜査手法は時代遅れになるところで回想形式のドラマ中のメインストリームはおわってるんだけど、だったら平塚刑事が最も先鋭的な捜査手法を採っていた部分をちゃんとやらないと。尊敬する先輩刑事もいないし。
それらしい描写はあるけどね。
うん、でもそれらは全て巧妙に仕組まれた逃げ道さ。昭和20年代庶民の警察にたいするイメージすら描写されていないし。
親方日の丸の横暴さかい?
『野良犬』でさえ端々に昭和20年代庶民の警察観が見え隠れしていたのにね。
そりゃないものねだりだよー。
そうだろうだけど、小さな嘘を暴くことを積み重ねることによって大きな嘘を覆い隠す。
確かにミエミエのブラックボックスはなんだかなーとは思ったけどさ、下山事件とか今でもヤブヘビになりかねないもんね。
俺が嫌うのはそんなところにばっかりアタマ使いやがってってコトなんだ。『ハゲタカ』もだよね。そんなのは早晩行き詰まるってわかってるはずなのにね。だったら俺たちゃカツドウヤだと開き直りゃいいのに、金融ピカレスクアクションをやるならエリート役者よりも竹内力を使わなかったのは何故なんだろうとも思ったし。
そのへんにしときな。『余命1ヶ月の花嫁』になぜモックンが出ていないのかと言い出しかねないよ、このひと。
いや、それが、実は俺はまっとうな映画物語だと評価してんだぜ(略)。
それ悪口?それとも松竹ヌーベルヴァーグへのオマージュかい?
いや、確かに松竹ヌーベルヴァーグには大きな嘘を暴こうとした運動だという一面の真理はあるけど、むしろ小津安二郎監督作品がいかに凄かったかということなんだ。
おおっとそー来たかー。
例えるなら『小早川家の秋』がわかりやすい。前々回で触れた「神から目線」の作品世界を幼少期の一過性視点とフレームで見せるのは相変わらずだけど、これは暗示がほとんどない。
場面選定にしても明示可能なものに徹底して限定している。工場がなく、酒桶が立てかけられた酒蔵の外観と帳場だけの造り酒屋に、電車が映らない停車場での別れや、火葬場の煙突と待合の食事と葬列だけの葬送などは、省略というより「描かない」意志が明白だ。
愛人宅は描写が細かいのにね。
シナリオ執筆時にはあったが消去されたのであろう場面を想像するに、造り酒屋の工場での労働風景、電車とホームとの隔絶、納棺骨上げ等だ。不要だから描かないというよりむしろ、夾雑物もしくは夾雑としての人物や感情の動き、ドラマ場面を徹底して排することを採ったんだろう。
ドラマを限定したということかい?
そう、作劇演出上も、複数回描出される中村鴈治郎扮する万兵衛の着替えは言うにおよばず、一度目の心臓発作を起こしてからはもう向こうの人なんだなという画面になっているし、自宅居間の鴨居上の神棚は、存在していたはずが例のシーン以降きちんとフレームに入る構図となる。クライマックスの炎天下の川辺は三途の川だし、葬列は目的地が明示されない。
そのうえ川辺の農夫たちの会話はねえ。
ダメ押しだよね。
さらに恐ろしいのはガキの時分にこれ見たってトラウマにはならないんだよ。でも今見ると。カラリと晴れわたった恐ろしさで埋め尽くされたクライマックスに驚くばかりだ。
(略)
それよりわからないのは何故君が『ヱヴァ:破』に『小早川家の秋』を持ち出したのかということだ。
簡単さ、現興行作品中もっとも先鋭な娯楽作品が、『小早川家の秋』に限らず晩期小津作品に最も近いかもしれないと感じたからなんだ。
そりゃまた…どーして?
『ヱヴァ:破』の二つの劇中歌だよ。悲惨さと180度違うイメージのメロディに、しかも詞はシークエンスにシンクロしてるという。
カラリと晴れ渡った恐ろしさかい?意図はわかるよ、けど『Air/まごころを、君に』じゃアスカの首を絞めて1970年代前半っぽい「Komm, süsser Tod」が流れ、情緒障害児(?)が描いたような絵がモンタージュされる。あのときの方が物語意図はわかりやすかったし、フィルム自体の存在としても違和感はなかったよ。直後の「補完」がなされた描写や、後で現実世界でアスカと二人きりになる伏線にもなってたし。
もちろんそれ以外にも「破」という三部作(四作品)の二作目としてのウイークポイントはあるさ。結末の明示がないのは仕方ないけど、他者にこれほど(じつは普通だとの説もあるが)興味を示す。関係を修復したり改善したりするチルドレンたちはこれまでのエヴァからは考えられなかった。
そこが今回最大のネタバラシになるわけだよね。シリアスドラマだから次回で裏切られたりすることはあるだろうけど。
拙い部分があるにせよ、1995年~97年当時の自己と他者というサブテーマ以外の部分に考えをめぐらせざるをえない。
昨年の秋葉原事件以降という意味かい?
次ではっきりするという。僕はむしろ電車内での会話の場面のことかと。
あれはモロだけど、ま、ご随意に。
オトナのエヴァを期待したりして。20代のチルドレンなんて想像したくないけど(略)
いずれにせよ、1994~5年当時の時代状況にシンクロした登場人物の設定が、変化しているのは当然だ。そこからが本題。
前置き長いぞコノヤロー。
すまん、オタクはディテールに関する話題が多いのだ。
(略)
ラストだけれど、初号機が6号機に刺される。
正確にはレイと融合した初号機をだよ。サードインパクトを止めたらしい。
これはちっともオチになっていないと思う。『破』なんだもの。
他者に興味を持ち始め、成長するチルドレンの今後が紡がれる。それに何よりサードインパクトの向こうがわのシンジとレイがどうなるか、ヒトとしての形を存続するのもいいけど、成長=精神汚染でみんないいひとになっちゃったりして。けーんぜーんな。
だとしたらショックだよー、それこそ小津だ。
元々そうなればいいのにとゼーレが「人類補完計画」を策定したのだから。
それは旧映画版まで。むしろ『ヱヴァ:破』は同じ設定、作品世界を破る過程を、もしくは時代が経って変化する状況を反映したともとれる。当然といえば当然だけど。
そこなんだ。『小早川家の秋』は逝きっぱなしは生前の記憶や想いであって生き物はまた生まれるという(略)
話を戻すけど、時代が経ったことに合わせた結果なのかな。むしろ合わせると同時にズレを取り込んだのがあの選曲ともとれる。
ほーら反復とズレだ、小津監督だ(笑)。
都合テレビ放送とあわせて第拾九話「男の戦い」のクライマックスは『破』で三度目だ。幾度となく反復するセリフや場面にズレがあり、それが時代とともに変化するのも当然でしょう。
誰もやってないことをやってんだよね、エヴァのスタッフ諸兄は。でも小津監督なら一作ポッキリだとは言わないけどさ。
俺たちもね。あと、インディーズ作品なんだよねこれ。
インディーズ作品の大代表といえばスタンリー・キューブリックだけど。
話終わらなくする気か?(略)
果たして明解されるかね?だって次回は「Q」だって。
「マイティジャック」かい?
「ウルトラQ」や超兵器の意味かも知れないよ。
テレビ版25話、26話の映画化だったりして。
あれにマリは混ざらないよ。
(略)