歩く戦後医療史とも言われる著名な方の米寿パーティーがあり、映像記録をDVDに仕上げる仕事がおわった。
編集作業中しばしば感じる不快感はなんだろうと訝っていたのだが。原因は近すぎる納期のため不休で働いたこともあるが、被写体のありようだった。
著名人のパーティーである。代議士や知事が祝辞を述べるのはいい。歳はとっても女子は女子、上等な召しものにひかりもので身を飾るのもいい。
驚いたのは、平均年齢60歳はゆうに越えているであろう(代表世話人は90歳)来賓の前に並んだ馳走はビールにワインに中華料理、メニューはエビチリに鶏肉とカシューナッツの唐辛子炒め、メインは骨付きリブと、小生でも書いているだけでゲップがでそうな皿が並んだ。
またそれをお年寄りがガツガツやるんだこれが。
大正生まれの食い意地には驚くばかり。思い出すに愚母なんざ今でもケーキワンホールをぺろりと平らげる。
考え至ったのは来賓の彼女ら彼らは主賓を褒め、讃え、鑑にしたいと、延々3時間にわたって祝辞を述べ、パーティーを続ける様に、まともとは思えないという違和感だった。
そこで思い出したのは年寄りどうしが若者の目の前で差別意識丸出しで罵り合う「グラン・トリノ」だ。
冒頭の話に戻るが、歩く戦後医療史、ひいては一億総苦労人世代に一定のリスペクトは忘れまい。ただし、一方で、人前で殆ど挨拶代わりに罵り合う関係に、仲の良さや、通じ合うという意味でのリアリティが、件のパーティーにはない。少なくとも小生は感じ取れなかった。
小生が変なのだろうか?
「よっ、くたばりぞこない」「てめぇこそ最近物忘れがひどいって、死ぬこと忘れてんじゃねーのか」「おめーこそ葬式代を馬に注ぎこみやがって、だから女房に愛想つかされんだ」類の会話が、たとえ一片でも混ざっていれば、より人として厚みのあるパーティーになっただろうに。
さらに「インビクタス」は間違いなく保守の映画作品である。
冒頭、白人のラグビーコーチがマンデラをテロリストと呼ぶ。
「ロベン島なる離れ小島に監獄つくってそこにぶち込みでもしなければ収まりがつかぬ程のゴリゴリの武闘派だったんだマンデラは」とある人は言うだろう。
「そうやって人種の壁を乗り越えた南アフリカは今、HIV蔓延と治安悪化に悩んでいるよ」とあるインテリが言う。
隣席の老夫婦の亭主が「田舎芝居だ」とのたまった。
それがどうした。政権交代後、前政権の偉いさんが犯罪者呼ばわりされたり、訴追されたり、またはその逆などよくあることだし、南アの現在の内情と本作のテーマとは関係ない。イナカ芝居だろうがテーマからしてベタなのだから、わかりやすさやシンプルさを優先させる製作方針だったことなどすぐにわかる。
前政権はすべて悪と断じて変えるのは新たな分断を生む。だから悪を赦し、融和を説く。
スポーツは人と人をつなぐ。それだけだ。
むしろ、小生が一仕事を終え、本作鑑賞後に「赦す」と聞いて思い出すのは「アマデウス」のラスト、サリエリの台詞だ。あれはキリスト教のもつニヒリズムの一解釈だったと記憶している。
だから、功成り名を遂げた年寄りが、時の保守面々からうわすべりな挨拶の連続を半日以上にわたって受け続ける惨状を眼前にしても、赦そう。
というふうにまとめるのが、カッコ良いのだろうが、もうひとつ思い出した(あきらめ悪いなあ)。
昨年の話で恐縮だが「戦場でワルツを」。
恐らく実写からロトスコープで描き起こしたのであろうリアルなGペン風線画にセルアニメよろしく彩色された原画にモーフィングを施した手法でアニメート構成されている。作者は、生々しさから距離をとりたかったのであろう。
「地獄の黙示録」を連想させる場面もあるが、少なくとも製作意図はまったく違う。
戦争が兵士に気狂いを生むのが「地獄~」なら兵士を半ば気狂いにして戦場に送り込むのが「フル・メタル・ジャケット」。正気に戻ろうとする際の悲劇は数知れずだ。が、本作は戦後が舞台の戦前の回想を織り交ぜたセミドキュメンタリーだ。マトモな若者が兵士として戦場に赴き、死線をかいくぐった末気狂いになったことに気付かないまま戦後を生きている。
封印された記憶を追い求める道々、インサートされるのが現実にはないはずの、夜の海岸で仲間の兵と海水浴に興じているシーン。作者にとっては現在の、平和な現実すら掴み所のない、ふわふわしたものと思えるのかもしれない。だから、狂気が見る悪夢の延長線上にあるものとして、海水浴の回想が繰り返されるのか。
ラスト、セルアニメ調で描かれてきた、どちらかといえば表情に乏しいキャラクターがニュース映像の、生々しい「まともな=正気の」表情のモンタージュになる。悪夢は続くのか?
え?そんなこたあ世界中いたるところで起こっているだって?
じゃあ体験してみるか?手前!
すまん。つい先日まで私自身生命の危険にさらされていたもので。
編集作業中しばしば感じる不快感はなんだろうと訝っていたのだが。原因は近すぎる納期のため不休で働いたこともあるが、被写体のありようだった。
著名人のパーティーである。代議士や知事が祝辞を述べるのはいい。歳はとっても女子は女子、上等な召しものにひかりもので身を飾るのもいい。
驚いたのは、平均年齢60歳はゆうに越えているであろう(代表世話人は90歳)来賓の前に並んだ馳走はビールにワインに中華料理、メニューはエビチリに鶏肉とカシューナッツの唐辛子炒め、メインは骨付きリブと、小生でも書いているだけでゲップがでそうな皿が並んだ。
またそれをお年寄りがガツガツやるんだこれが。
大正生まれの食い意地には驚くばかり。思い出すに愚母なんざ今でもケーキワンホールをぺろりと平らげる。
考え至ったのは来賓の彼女ら彼らは主賓を褒め、讃え、鑑にしたいと、延々3時間にわたって祝辞を述べ、パーティーを続ける様に、まともとは思えないという違和感だった。
そこで思い出したのは年寄りどうしが若者の目の前で差別意識丸出しで罵り合う「グラン・トリノ」だ。
冒頭の話に戻るが、歩く戦後医療史、ひいては一億総苦労人世代に一定のリスペクトは忘れまい。ただし、一方で、人前で殆ど挨拶代わりに罵り合う関係に、仲の良さや、通じ合うという意味でのリアリティが、件のパーティーにはない。少なくとも小生は感じ取れなかった。
小生が変なのだろうか?
「よっ、くたばりぞこない」「てめぇこそ最近物忘れがひどいって、死ぬこと忘れてんじゃねーのか」「おめーこそ葬式代を馬に注ぎこみやがって、だから女房に愛想つかされんだ」類の会話が、たとえ一片でも混ざっていれば、より人として厚みのあるパーティーになっただろうに。
さらに「インビクタス」は間違いなく保守の映画作品である。
冒頭、白人のラグビーコーチがマンデラをテロリストと呼ぶ。
「ロベン島なる離れ小島に監獄つくってそこにぶち込みでもしなければ収まりがつかぬ程のゴリゴリの武闘派だったんだマンデラは」とある人は言うだろう。
「そうやって人種の壁を乗り越えた南アフリカは今、HIV蔓延と治安悪化に悩んでいるよ」とあるインテリが言う。
隣席の老夫婦の亭主が「田舎芝居だ」とのたまった。
それがどうした。政権交代後、前政権の偉いさんが犯罪者呼ばわりされたり、訴追されたり、またはその逆などよくあることだし、南アの現在の内情と本作のテーマとは関係ない。イナカ芝居だろうがテーマからしてベタなのだから、わかりやすさやシンプルさを優先させる製作方針だったことなどすぐにわかる。
前政権はすべて悪と断じて変えるのは新たな分断を生む。だから悪を赦し、融和を説く。
スポーツは人と人をつなぐ。それだけだ。
むしろ、小生が一仕事を終え、本作鑑賞後に「赦す」と聞いて思い出すのは「アマデウス」のラスト、サリエリの台詞だ。あれはキリスト教のもつニヒリズムの一解釈だったと記憶している。
だから、功成り名を遂げた年寄りが、時の保守面々からうわすべりな挨拶の連続を半日以上にわたって受け続ける惨状を眼前にしても、赦そう。
というふうにまとめるのが、カッコ良いのだろうが、もうひとつ思い出した(あきらめ悪いなあ)。
昨年の話で恐縮だが「戦場でワルツを」。
恐らく実写からロトスコープで描き起こしたのであろうリアルなGペン風線画にセルアニメよろしく彩色された原画にモーフィングを施した手法でアニメート構成されている。作者は、生々しさから距離をとりたかったのであろう。
「地獄の黙示録」を連想させる場面もあるが、少なくとも製作意図はまったく違う。
戦争が兵士に気狂いを生むのが「地獄~」なら兵士を半ば気狂いにして戦場に送り込むのが「フル・メタル・ジャケット」。正気に戻ろうとする際の悲劇は数知れずだ。が、本作は戦後が舞台の戦前の回想を織り交ぜたセミドキュメンタリーだ。マトモな若者が兵士として戦場に赴き、死線をかいくぐった末気狂いになったことに気付かないまま戦後を生きている。
封印された記憶を追い求める道々、インサートされるのが現実にはないはずの、夜の海岸で仲間の兵と海水浴に興じているシーン。作者にとっては現在の、平和な現実すら掴み所のない、ふわふわしたものと思えるのかもしれない。だから、狂気が見る悪夢の延長線上にあるものとして、海水浴の回想が繰り返されるのか。
ラスト、セルアニメ調で描かれてきた、どちらかといえば表情に乏しいキャラクターがニュース映像の、生々しい「まともな=正気の」表情のモンタージュになる。悪夢は続くのか?
え?そんなこたあ世界中いたるところで起こっているだって?
じゃあ体験してみるか?手前!
すまん。つい先日まで私自身生命の危険にさらされていたもので。