寄稿子様、ありがとうございます。いやあ、本作鑑賞直後に小生が受けた第一印象と近いことに驚いています。
なんとか体調を取り戻しつつあります。長くなりますがおつきあいください。
歴史上被差別(被迫害)者は差別(迫害)者へ報復した例はあまりありません。一々挙げるとキリがないのでユダヤ人を例にとれば、ナチに迫害されたユダヤ人はパレスチナ人を差別しています。
『麦の穂をゆらす風』の悲劇は、仕返しの矛先を内側へ向けさせ、交渉を有利にすすめるー為政者はこのことをよく知っており…という常套句は、21世紀になってもグローバリゼーションが進み、悲喜劇の共有が、それこそ世界規模で進んでも繰り返されています。
近年米国でも差別的な表現を覆うことをしなくなったと以前に書きましたが、元々米国は壮大な実験国家で、制度設計も実験的です。一例ですが、婦人警官がいません。男も女も同じ警官です。もちろん、母体保護や生理休暇などは(州にもよるでしょうが)それなりにあるのでしょうが。
それでも、ハリウッドへ観光に行けばわかりますが、行楽地にアフリカ系の方が見えません。覆い隠したところで差別は沈殿し、陰湿化するというあたりまえのことと言えばそれまでですが、基は「アイツらとオレらとは違う」なのですから、そこへの視点、すなわち「人間は差別をする生き物だ」という原則にたいする自覚を欠いたまま、言葉狩りや、糾弾を重ねても、新しい差別や、弱者もしくは被差別者の利権構造の再生産に終始するでしょう(それら利権の世襲すらあったりして)。
戦前では権力を帯びて差別はおろか本国人間でもブイブイいわせていた官僚や憲兵が「今や私は弱いのだ。すべて失ったのだ」と媚びたところで、問題は解決しません(政治構造の議論はさておきます)。
さて、「イングロリアス・バスターズ」ですが、残虐で粘着質な演出や、会話でサスペンスを盛り上げ、そこからいきなり近接銃撃戦に移ったりと、マカロニウエスタンばりの志向が塗りたくられています。いやいや、鑑賞の際にシネフィル度としての引き出しの多さを自慢しても始まりません。むしろ、ナチを悪者にする、ある種の紋切り型であり、らくちんな作劇を天の邪鬼ちっくにひっくり返すのも悪趣味で、モノホンのゲッベルスと大差ない。ならば、物語をつくる=必然をつくるの基本に則れば、歴史からの逸脱も織り込める。
趣味だけで作っているという批判を見かけますが、「ゲド戦記」を隣に置けばわかるとおり、タランティーノ監督が独りよがりや思い込みだけで作っていないのは明らかです。粘着質と書きましたが、それは硬質な、引いた視点ーショシャナが匿われていた丘の一軒家や、映画館のロビー、さらに寄稿子様も触れていましたが、現在パレスチナ人にたいしてやっていることが再現されているのですから。
ここまでが、出発点です。ここからどのように考えを進めるかですが、
『高い城の男』などのように、パラレルワールドとしての史劇は過去にもたくさん紡がれてきました。
「歴史にたいする冒涜」という常套句がありますが、小生はこの言葉の意味が今だにわかりません。先祖先輩の努力の積み重ねのおかげで現在の我々に、ベースとしての社会的利益があるのだという謂れに異論はありませんが、歴史において個人や少数派がメジャーになる過程またはその逆を、政権交代を例示するまでもなく目撃しており、歴史は参加することが恐ろしいもの、見極めが難しいものという印象は持っているつもりです。さらに、戦争は絶対悪という以前に戦争とは何ぞや?ということすら未だ定義できていない状況です。
この問いにたいする私の答えは、ある学者の言説に最も近く、「よその国の労働者をして自国の労働者を殺さしめる行為」が現在の考えです。
批評家諸氏がよく指摘される、本編中ランダ大佐だけが悪業をおこなうナチとして描かれており、〈ナチ=悪〉の上に乗っている価値観を悪意をもってひっくりかえしてやろうという目論みは空回りしていると、ある批評子(玄人)の言ですが
←「わらの犬」米国から逃れようとするインテリも、性衝動から自由になろうとする妻も、精白者も、結局一皮剥けば暴力にハマる人間ではないか。村の若者の方が余程人間らしいが、そこに生じる齟齬が丁寧に描かれていた。
ではその齟齬は「イングロリアス•バスターズ」には描かれてはいなかったか?
ここではじめて演出のタッチが、あそこのあのカットはあの時代のあの作品のタッチだのといった、シネフィルの引き出しの登場となるのです。ここからもうひとつ、引き出しにある「~あのタッチ」「~風の描写」は作中いかなる目的で採用され、どのような効果をあげていたかまで触れていないと、本作の評としてはその多くをこぼすと思います。
そう、タランティーノは「歴史にたいする冒涜」と呼ばれている行為を、自らの演出に塗り込めたのです。だから、ストーリーは過去にも似たようなのがあった。しかし、描写や演出はそうではない。抜け目のないナチのSSを出した次に残虐な場面を平気でいれたり、イタリアンといえば眉間の皺とシャクレしか芸のないブラピのなんちゃってがあった次には劇場でのショシャナによる復讐の成就があるは。これらの、戦争から想像可能な、悲劇や喜劇や、果てはスナッフシーンまでもが、本当に何の前フリもなく平気で編集されていることに、私は泣けず、笑わず、引きつらず、ただ驚くと同時に映画物語の可能性を今の時代でここまで広げてみせた希有な例として評価するのです。感情移入せざるをえない粘りと、戦争から引き出される多くの異種エピソードが、一種独特の味わいを持った映画として。
「どの映画にも似ていない」だって?デビュー当時のゴダールだってそう言われたさ。映画史への冒涜?逆かもしれませんぜ。
てなわけで、「母なる証明」よりも玄人ライターや評論家諸兄が裸にされ、ひょっとしたら額に と彫られる可能性を秘めた。楽しくも恐ろしい作品。
さて、私このたび職場が変わることになりました。更新が遅れた理由です。とはいっても、次の職場が未定なのですが、ま、決まりましたら報告します。(いきさつや詳細をお尋ねの向きはメールで)
来年ですが、「カラフル」「座頭市 THE LAST」「十三人の刺客」「インビクタス」「借りぐらしのアリエッティ」「アウトレイジ」を見ようと思っています。
なんとか体調を取り戻しつつあります。長くなりますがおつきあいください。
歴史上被差別(被迫害)者は差別(迫害)者へ報復した例はあまりありません。一々挙げるとキリがないのでユダヤ人を例にとれば、ナチに迫害されたユダヤ人はパレスチナ人を差別しています。
『麦の穂をゆらす風』の悲劇は、仕返しの矛先を内側へ向けさせ、交渉を有利にすすめるー為政者はこのことをよく知っており…という常套句は、21世紀になってもグローバリゼーションが進み、悲喜劇の共有が、それこそ世界規模で進んでも繰り返されています。
近年米国でも差別的な表現を覆うことをしなくなったと以前に書きましたが、元々米国は壮大な実験国家で、制度設計も実験的です。一例ですが、婦人警官がいません。男も女も同じ警官です。もちろん、母体保護や生理休暇などは(州にもよるでしょうが)それなりにあるのでしょうが。
それでも、ハリウッドへ観光に行けばわかりますが、行楽地にアフリカ系の方が見えません。覆い隠したところで差別は沈殿し、陰湿化するというあたりまえのことと言えばそれまでですが、基は「アイツらとオレらとは違う」なのですから、そこへの視点、すなわち「人間は差別をする生き物だ」という原則にたいする自覚を欠いたまま、言葉狩りや、糾弾を重ねても、新しい差別や、弱者もしくは被差別者の利権構造の再生産に終始するでしょう(それら利権の世襲すらあったりして)。
戦前では権力を帯びて差別はおろか本国人間でもブイブイいわせていた官僚や憲兵が「今や私は弱いのだ。すべて失ったのだ」と媚びたところで、問題は解決しません(政治構造の議論はさておきます)。
さて、「イングロリアス・バスターズ」ですが、残虐で粘着質な演出や、会話でサスペンスを盛り上げ、そこからいきなり近接銃撃戦に移ったりと、マカロニウエスタンばりの志向が塗りたくられています。いやいや、鑑賞の際にシネフィル度としての引き出しの多さを自慢しても始まりません。むしろ、ナチを悪者にする、ある種の紋切り型であり、らくちんな作劇を天の邪鬼ちっくにひっくり返すのも悪趣味で、モノホンのゲッベルスと大差ない。ならば、物語をつくる=必然をつくるの基本に則れば、歴史からの逸脱も織り込める。
趣味だけで作っているという批判を見かけますが、「ゲド戦記」を隣に置けばわかるとおり、タランティーノ監督が独りよがりや思い込みだけで作っていないのは明らかです。粘着質と書きましたが、それは硬質な、引いた視点ーショシャナが匿われていた丘の一軒家や、映画館のロビー、さらに寄稿子様も触れていましたが、現在パレスチナ人にたいしてやっていることが再現されているのですから。
ここまでが、出発点です。ここからどのように考えを進めるかですが、
『高い城の男』などのように、パラレルワールドとしての史劇は過去にもたくさん紡がれてきました。
「歴史にたいする冒涜」という常套句がありますが、小生はこの言葉の意味が今だにわかりません。先祖先輩の努力の積み重ねのおかげで現在の我々に、ベースとしての社会的利益があるのだという謂れに異論はありませんが、歴史において個人や少数派がメジャーになる過程またはその逆を、政権交代を例示するまでもなく目撃しており、歴史は参加することが恐ろしいもの、見極めが難しいものという印象は持っているつもりです。さらに、戦争は絶対悪という以前に戦争とは何ぞや?ということすら未だ定義できていない状況です。
この問いにたいする私の答えは、ある学者の言説に最も近く、「よその国の労働者をして自国の労働者を殺さしめる行為」が現在の考えです。
批評家諸氏がよく指摘される、本編中ランダ大佐だけが悪業をおこなうナチとして描かれており、〈ナチ=悪〉の上に乗っている価値観を悪意をもってひっくりかえしてやろうという目論みは空回りしていると、ある批評子(玄人)の言ですが
←「わらの犬」米国から逃れようとするインテリも、性衝動から自由になろうとする妻も、精白者も、結局一皮剥けば暴力にハマる人間ではないか。村の若者の方が余程人間らしいが、そこに生じる齟齬が丁寧に描かれていた。
ではその齟齬は「イングロリアス•バスターズ」には描かれてはいなかったか?
ここではじめて演出のタッチが、あそこのあのカットはあの時代のあの作品のタッチだのといった、シネフィルの引き出しの登場となるのです。ここからもうひとつ、引き出しにある「~あのタッチ」「~風の描写」は作中いかなる目的で採用され、どのような効果をあげていたかまで触れていないと、本作の評としてはその多くをこぼすと思います。
そう、タランティーノは「歴史にたいする冒涜」と呼ばれている行為を、自らの演出に塗り込めたのです。だから、ストーリーは過去にも似たようなのがあった。しかし、描写や演出はそうではない。抜け目のないナチのSSを出した次に残虐な場面を平気でいれたり、イタリアンといえば眉間の皺とシャクレしか芸のないブラピのなんちゃってがあった次には劇場でのショシャナによる復讐の成就があるは。これらの、戦争から想像可能な、悲劇や喜劇や、果てはスナッフシーンまでもが、本当に何の前フリもなく平気で編集されていることに、私は泣けず、笑わず、引きつらず、ただ驚くと同時に映画物語の可能性を今の時代でここまで広げてみせた希有な例として評価するのです。感情移入せざるをえない粘りと、戦争から引き出される多くの異種エピソードが、一種独特の味わいを持った映画として。
「どの映画にも似ていない」だって?デビュー当時のゴダールだってそう言われたさ。映画史への冒涜?逆かもしれませんぜ。
てなわけで、「母なる証明」よりも玄人ライターや評論家諸兄が裸にされ、ひょっとしたら額に と彫られる可能性を秘めた。楽しくも恐ろしい作品。
さて、私このたび職場が変わることになりました。更新が遅れた理由です。とはいっても、次の職場が未定なのですが、ま、決まりましたら報告します。(いきさつや詳細をお尋ねの向きはメールで)
来年ですが、「カラフル」「座頭市 THE LAST」「十三人の刺客」「インビクタス」「借りぐらしのアリエッティ」「アウトレイジ」を見ようと思っています。