『母なる証明』
この歳になれば同世代の知人友人のなかにも死ぬやつのひとりやふたりはいて、弔問に伺った際、応対してくれるのは大抵母親以外のお身内で、「お母さんは?」とたずねると、「二階で寝込んでいます」「とても人前に出ることのできない状態ですので」…。さもありなんと思うが、「いくらなんでもこの溺愛ぶりはいき過ぎなんじゃないか?」とか、母親の、息子にたいする愛情たるや端から見て「イッちゃってんじゃないか」と思えることがしばしばある。
ネタバレになりうるので詳細は控えるが、本作のキモは、物語前半、母親が息子の用便を手伝うところや、ラスト、母親が自らの太ももを露にするところなどだ。性欲は本能だが、母性は、本能とは明確に定義されていない。その接点が垣間見える箇所だ。特に後者、記憶を操作するツボ=太ももにハリをうつのだが、ここでこの母親は、息子の記憶を操作=白痴化という犯罪的恣意すなわち「息子を意のままの人格に育てたい」という欲望を母性の情愛で覆い隠すことによって生活を、臥所を共にしてきたのではないか?
世間の荒波に揉まれ、耐える女性像、もしくは母親像は韓国ドラマのモチーフ(「恨」については割愛)としてよく見かけるが、母性と性衝動の接点に、犯罪性を織り込んで人間の業を描ききった。
というのが大方の見方でしょう。
後味は悪いことこの上ないが、成功作であることは間違いない。ただ、サスペンスの要素を盛り込みすぎる。上出来だから良作というわけではない。
冷静に思い出せば、クズ鉄屋のオヤジが真実を語っていた保証もないし、被害者の客だった可能性も弱くない。
ひとつひとつの演出がパワフル過ぎて散漫さこそないが、観客の心理を弄んでいる印象すら与えかねない。
骨太なプロットと、サスペンスの盛り上がりを、ヒッチコックは、ロマンスで味付けされたスターの競演というオブラートやスパイスという曲で見せた。
考えてみればヒッチコックの作品もとんでもなく悲惨な話も多々あるわけだし。
ポン・ジュノ監督は一度スター映画を撮ってみてはどうかと、小生がプロデューサーなら考える。『漢江の怪物』があるって?あれってスター映画だっけ?
浮かび上がるのは、世に問う社会性、特に人間の業を描くのなら本作の方法もその一つであり、他方『時計じかけのオレンジ』もその在処を許されるはずではないか。
この歳になれば同世代の知人友人のなかにも死ぬやつのひとりやふたりはいて、弔問に伺った際、応対してくれるのは大抵母親以外のお身内で、「お母さんは?」とたずねると、「二階で寝込んでいます」「とても人前に出ることのできない状態ですので」…。さもありなんと思うが、「いくらなんでもこの溺愛ぶりはいき過ぎなんじゃないか?」とか、母親の、息子にたいする愛情たるや端から見て「イッちゃってんじゃないか」と思えることがしばしばある。
ネタバレになりうるので詳細は控えるが、本作のキモは、物語前半、母親が息子の用便を手伝うところや、ラスト、母親が自らの太ももを露にするところなどだ。性欲は本能だが、母性は、本能とは明確に定義されていない。その接点が垣間見える箇所だ。特に後者、記憶を操作するツボ=太ももにハリをうつのだが、ここでこの母親は、息子の記憶を操作=白痴化という犯罪的恣意すなわち「息子を意のままの人格に育てたい」という欲望を母性の情愛で覆い隠すことによって生活を、臥所を共にしてきたのではないか?
世間の荒波に揉まれ、耐える女性像、もしくは母親像は韓国ドラマのモチーフ(「恨」については割愛)としてよく見かけるが、母性と性衝動の接点に、犯罪性を織り込んで人間の業を描ききった。
というのが大方の見方でしょう。
後味は悪いことこの上ないが、成功作であることは間違いない。ただ、サスペンスの要素を盛り込みすぎる。上出来だから良作というわけではない。
冷静に思い出せば、クズ鉄屋のオヤジが真実を語っていた保証もないし、被害者の客だった可能性も弱くない。
ひとつひとつの演出がパワフル過ぎて散漫さこそないが、観客の心理を弄んでいる印象すら与えかねない。
骨太なプロットと、サスペンスの盛り上がりを、ヒッチコックは、ロマンスで味付けされたスターの競演というオブラートやスパイスという曲で見せた。
考えてみればヒッチコックの作品もとんでもなく悲惨な話も多々あるわけだし。
ポン・ジュノ監督は一度スター映画を撮ってみてはどうかと、小生がプロデューサーなら考える。『漢江の怪物』があるって?あれってスター映画だっけ?
浮かび上がるのは、世に問う社会性、特に人間の業を描くのなら本作の方法もその一つであり、他方『時計じかけのオレンジ』もその在処を許されるはずではないか。