ドンパチもの娯楽作品の常道として、冒頭、ヒールの悪行が描かれる。近頃よく見かけるのは感情移入される隙を排さねばならないところを、わざと人間臭くヒールを造形することだ。表情豊かなキャラクターとは不釣合いな引き金を引く時のためらいのなさ。これにリアリティとの両立となると成功例はきわめて稀で、とっさにはゴールドフィンガーくらいしか思い浮かばない。さらに最も難しいのはそのヒールが最期をどう描出するかで、よく使われるのは策士策におぼれる等の、自業自得オチで…というやつだ。ゴールドフィンガー然り、先代のジョーカー然り。
装甲強化スーツと先端技術のアイテムでゴッサムシティに巣食う悪をやっつける生身の人間バットマン。しかしそれはあくまで非合法自警(もしくは破壊)活動であり、犯罪である。
そこへ安手の紫色スーツにグリーンの髪、両端が裂けた口にジョーカーのドーラン化粧、不敵な笑いを漏らし、凶暴で残忍で、生い立ちが不詳な、他人の不幸と混沌こそわが糧とする悪漢が登場する。
言うまでもなく犯罪はその大半が金銭目当てだ。それらは世情が比較的平和な時代に現出するものだ。ところが現金にガソリンぶっかけて火ぃつけるは、どこから調達したのか装甲車ふっとばすのにロケットランチャーまで用意するは、爆薬仕掛けるのも神出鬼没でそれで巻き起こるパニックを楽しんでるは、まるで自分の栄養を破壊と殺戮と怨嗟を人からかい、求め、あざ笑うことによって吸収しているかのような「人間くささ」(人間性の議論は別の機会に)。これを持った存在=ジョーカーが、作品を圧してやまない。
ここで触れる悪行とは?
天安門事件当時、何で中南海へ突入しなかったんだこのヘタレめ!とこぼした友人がいた。通り魔事件のニュースを見て「ヤクザの事務所でやれ」とつぶやくサラリーマンを見かけた。某宗教団体の施設がやってくるのを阻止しようと町内会が一丸となって反対しているのを見て「地元のヤクザは何やってんだ?」と知人が言っていた。
どれも平和だからだ。対外戦争ができるくらいに。
善悪が重層的に折り重なっている社会を、さらに上から悪の鉄槌を下す存在か?
だから、困っている。中南海へ突入し、中共幹部を皆殺しにして、その後の内陸部の暴動激化のニュースに狂喜し、ヤクザの事務所へカチこみに行って皆殺しにしてケロリとした顔で出てきて、後にそのシマが暴力団同士の緩衝地帯になり、広域団体や外国マフィアの抗争で血の雨が降ったことにニヤリと笑みをもらし、某宗教団体施設をビルまるごと爆破して一般市民にも多大の犠牲者をだしたり、ハイジャックした旅客機を超高層インテリジェントビルに突っ込ませる直前に脱出し、その直後に起きる大規模な報復戦争を目の当たりにして、口が裂けるほど笑っている悪人が、私自身の中にもいることに。
ありえない人物をリアルに造形するという映画の醍醐味を味わうのは、いつが最後だっただろう。そして慄然とした。
小生は過去に、悪のための悪、暴力のための暴力にたいして否定的だと言ったことがあるが、本作はそれにたいし、ジョーカーを通して徹底的に開き直った。だから、緻密に構成された(はずの)脚本が、空回りしていない(はずな)のに、とても空しく見えてしまう瞬間がさしはさまれてしまいがちになってしまった。実際病院でのデントとジョーカーが対峙する場面はとても大切なのに、トゥーフェイスが登場してもジョーカーの活躍を待ち望んでいる自分に気がつくのだ。
それはラスト、ゴードン警部(本部長?)のセリフの嘘くささにつながる。何しろジョーカーの逮捕後の本編に必要な物語であり構成なのに、蛇足に見えてしまったのだから!
五者三つ巴の善悪の構図だけではない、9.11以降の米国がもつ焦燥へのメッセージもちゃんとキマっている娯楽活劇。にもかかわらず、バットマン本来のキャラクターであるはずの、毒をもって毒を制する紋切り型すら空々しい、圧倒的な悪業がはなつ魅力。その誘惑にどう取り組むべきか。おそろしく難しい課題を与えられた。
ブログにこんなタイトルつけなきゃよかった。
うーん、ジョーカーへつけ入る隙ねえ。思い出したのは1989年版。ジャック・ニコルソン扮する先代ジョーカーが、ヒロインであるビッキー・ベールをラチりに美術館を乗っ取るシーン。展示品を次々と破壊(恐らくジョーカー自身の言葉ではドレスアップ)している際、一点だけオリジナルのまま置いておく展示品(確かフランシス・ベーコンの絵画)があったことくらいか。
装甲強化スーツと先端技術のアイテムでゴッサムシティに巣食う悪をやっつける生身の人間バットマン。しかしそれはあくまで非合法自警(もしくは破壊)活動であり、犯罪である。
そこへ安手の紫色スーツにグリーンの髪、両端が裂けた口にジョーカーのドーラン化粧、不敵な笑いを漏らし、凶暴で残忍で、生い立ちが不詳な、他人の不幸と混沌こそわが糧とする悪漢が登場する。
言うまでもなく犯罪はその大半が金銭目当てだ。それらは世情が比較的平和な時代に現出するものだ。ところが現金にガソリンぶっかけて火ぃつけるは、どこから調達したのか装甲車ふっとばすのにロケットランチャーまで用意するは、爆薬仕掛けるのも神出鬼没でそれで巻き起こるパニックを楽しんでるは、まるで自分の栄養を破壊と殺戮と怨嗟を人からかい、求め、あざ笑うことによって吸収しているかのような「人間くささ」(人間性の議論は別の機会に)。これを持った存在=ジョーカーが、作品を圧してやまない。
ここで触れる悪行とは?
天安門事件当時、何で中南海へ突入しなかったんだこのヘタレめ!とこぼした友人がいた。通り魔事件のニュースを見て「ヤクザの事務所でやれ」とつぶやくサラリーマンを見かけた。某宗教団体の施設がやってくるのを阻止しようと町内会が一丸となって反対しているのを見て「地元のヤクザは何やってんだ?」と知人が言っていた。
どれも平和だからだ。対外戦争ができるくらいに。
善悪が重層的に折り重なっている社会を、さらに上から悪の鉄槌を下す存在か?
だから、困っている。中南海へ突入し、中共幹部を皆殺しにして、その後の内陸部の暴動激化のニュースに狂喜し、ヤクザの事務所へカチこみに行って皆殺しにしてケロリとした顔で出てきて、後にそのシマが暴力団同士の緩衝地帯になり、広域団体や外国マフィアの抗争で血の雨が降ったことにニヤリと笑みをもらし、某宗教団体施設をビルまるごと爆破して一般市民にも多大の犠牲者をだしたり、ハイジャックした旅客機を超高層インテリジェントビルに突っ込ませる直前に脱出し、その直後に起きる大規模な報復戦争を目の当たりにして、口が裂けるほど笑っている悪人が、私自身の中にもいることに。
ありえない人物をリアルに造形するという映画の醍醐味を味わうのは、いつが最後だっただろう。そして慄然とした。
小生は過去に、悪のための悪、暴力のための暴力にたいして否定的だと言ったことがあるが、本作はそれにたいし、ジョーカーを通して徹底的に開き直った。だから、緻密に構成された(はずの)脚本が、空回りしていない(はずな)のに、とても空しく見えてしまう瞬間がさしはさまれてしまいがちになってしまった。実際病院でのデントとジョーカーが対峙する場面はとても大切なのに、トゥーフェイスが登場してもジョーカーの活躍を待ち望んでいる自分に気がつくのだ。
それはラスト、ゴードン警部(本部長?)のセリフの嘘くささにつながる。何しろジョーカーの逮捕後の本編に必要な物語であり構成なのに、蛇足に見えてしまったのだから!
五者三つ巴の善悪の構図だけではない、9.11以降の米国がもつ焦燥へのメッセージもちゃんとキマっている娯楽活劇。にもかかわらず、バットマン本来のキャラクターであるはずの、毒をもって毒を制する紋切り型すら空々しい、圧倒的な悪業がはなつ魅力。その誘惑にどう取り組むべきか。おそろしく難しい課題を与えられた。
ブログにこんなタイトルつけなきゃよかった。
うーん、ジョーカーへつけ入る隙ねえ。思い出したのは1989年版。ジャック・ニコルソン扮する先代ジョーカーが、ヒロインであるビッキー・ベールをラチりに美術館を乗っ取るシーン。展示品を次々と破壊(恐らくジョーカー自身の言葉ではドレスアップ)している際、一点だけオリジナルのまま置いておく展示品(確かフランシス・ベーコンの絵画)があったことくらいか。