設定の特異さを強調したい演出なのだろうが、飲酒喫煙情交が当然のようにアンニュイな日常として頻出する。空回りもしていない。が、しかしである。
『ペンギンズ・メモリー幸福物語』は、愛嬌のあるキャラクターと充てられた声質のあまりの違和が、観客に驚きを与えると同時に、シリアスな作品世界を受け入れる門口となった。
『アキラ』の主な登場人物は6~7頭身の子供たちだ。その子らが暴走暴力はもちろん、学級崩壊などは遥か過去のこと、クスリはキメるは先生とデキるはムチャクチャな教育現場のリアルな描きこみ、デッサン力があいまって、一種近未来の像を結んでいた(実際は薄っぺらいとも感じていたが本稿の主題ではない)。
ふたつとも一見驚きはするのだが、作品世界にすんなりはいってゆける入口としてしっかり設定がなされ、描き込まれていた。
本作のオープニングはドンパチ。『王立宇宙軍~オネアミスの翼』にでてくる第3スチラドゥかと思ったが、キャノピーやエアインテイクなどが違っていた。でもまあ、考えることは同じで、震電をモデルに、エンテ型に二重反転プロペラで亜音速まで加速できるレシプロ機は小生も以前にね…それとマニューバが…。やめとこ、オタッキーな余談です。
んで地上に下りると手練の精悍なのが顔を出すと思いきや、少年少女の貌である!…ことにびっくりしないといけないのだが、スッと流してしまう自分に今更ながら驚いた。
つまり、特異な設定や物語世界が、あまりにも常態化されたものとして語られてしまい、主題にもかかわる訴求を感じ取ることができないのだ。これは作者サイドの問題だけでは片付けられない。『新世紀エヴァンゲリオン』の作者による、主人公は14歳時の自分ではなく現在の私だという意味の発言を覚えている。感情移入の対称がしっかりしていれば、おのずと作中でのサブキャラ、周囲の大人たちや生活感の描写がきちんとなされ、チルドレンの存在が「14歳」として理解できた。
本作では室内の調度がやけに大きかったりとか、工夫を凝らそうとしているが、煙草やボトルとの対比が大人のそれだったり、レイアウトがこれまでの同監督の作品のそれと同じになってしまっている。そこには前述した、作品世界を、設定を納得させる「驚き」がないのだ。
いや、すんなり入っていった後、じわじわと作品世界の不条理に気付かせ驚かせる仕掛け(構成)なのか。
ならば函南と草薙との情交は、もっと粘着質にする必要がある。娼館でのフーコとの描写にこれだけのこだわりをみせるなら。現状最も「間」へのこだわりを見せるアニメなら。
さらにキャスティング。草薙水素は一女をもうけた未亡人でもある見た目10代だ。ワイドショーや深夜ドキュメンタリに取り上げられる修羅場経験豊富な人格は、いっそのこと草薙瑞希を演じた声優が配されていたら…物語世界の悲劇性がさらに高まったのに…とまで考えてしまう。(誰も『田辺のつる』をやれとはいいません)

作者が悩まなかったわけではないのだろう。
未来に実現した世界平和の社会において、ヒトの闘争本能や脱日常願望からくる戦争の補完物としての、代替ゲームは、SFネタとしては目新しくない。ただ、未来予測マップは時代時代の学術成果とともに変わってゆく。「未来は懐かしく過去は常に新しい」は誰のセリフだったか。したがって、イギリスや東欧にロケーションした風景は、歴史を重ねすぎて荒涼となった、カントリーサイドのイメージや、経済政策の不調をうかがわせる宵の口から暗い街であり、多国籍企業体や日本語の新聞など、これ以上進歩したら滅びるだろう文明像を作中に結んでいた。この作品世界は異世界であって、イコール近未来ではないと言われたら、身も蓋もないが。

「映像プロップの大半をヴィジュアルとして新規に制作せねばならない」SF映画製作者の悩みは『エイリアン』や『未来世紀ブラジル』あたりを境に過去のものとなった。むしろ来るべき社会の制度や技術突破その後をイメージしなければならない。たとえば主権在民が実現された江戸時代とか。

過去に拙ブログで触れた、大きな社会の動き直後には大人を主人公にしたドラマ、ストーリーづくりははばかられる。それも本作では対象化されてしまった。街で虚空を見上げるか、ブックメーカーにも張らずにダイナーでテレビ越しにキルドレの殺し合いを眺めるしかできないシチズンが(キルドレたち以外に思春期キャラが登場しないことに注意)、普通となってしまったのか?勝手な妄想だが、シチズンたちは歳をとるのだろうか?

脱落、離脱、解脱、解離などの言葉で語られる様々な社会から脱け出た感覚や感性を、見た目思春期に託すことができたのだ。『機動戦士ガンダム』はシリーズを重ねるにつれて登場人物は年をとり、世代交代や果ては文明興亡史の果てまで行った。それでもシリーズ毎の主人公の年齢は思春期のそれだ。アムロもカミーユも。

非キルドレの若者に、絶対平和における戦争の絶対的な必要性を教育するシーン。これを混ぜろなどと団塊ちっくな思考回路をもってきてしまうのは、小生が歳をとった証拠か?
作品世界を説明する描写を極力避ける、イメージボード優先の作劇がもつ誤謬を凌駕できるのは、登場人物のバイタリティや演出力だという謂れに異論はない。『千と千尋の神隠し』がその一例。しかし本作の作者はそこから決別していると思う。いつだったか、某誌掲載の宮崎監督への書簡で読んだ。「演出の力ワザはスゴイ。しかしそれが活劇の面白さ、すなわち上手な嘘によってつくりこまれた必然をスポイルしている」と。
そこにむりやり意味を持たせ、「君は生きろ」と言わせるのなら、生まれ変わった(クローンの)湯田川の仕草を、交代する以前の彼と「すこし」違えてみる。一例だが力点を傾注すべきディテールの描出だと思う。函南のクローンも同様に。だって空戦の経験値は上書きされて兎離洲基地にやってくるのだから。
主な登場人物が生ける屍=ゾンビだからか。いや、血の通った存在として描出されているではないか。白い歯を見せて屈託なく笑っているではないか。
繰り返すギリシャ悲劇の輪から抜け出せない、アップもロングも悲劇にしか見えない世界での草薙水素の悪あがきは、スペアチャンスでわざとガーターをほうるくらい?
このようなとりとめもないことを書き連ねたのは、画の美しさに見とれながらも、シュールさは感じられず、どうしても物語世界のすわりの悪さが残ってしまったからだ。
妙な符合だが、函南のキャラクターデザインがホルスのそれに見えてしかたがない。性格はまるで違うけど。

あ、もうひとつ思い出した。
『東京物語』で原節子扮する紀子が、今も戦死した夫を思い出してしまうと告白するシーンだ。