アニメーション作品の出来不出来を評価するのは大変むずかしい。
最初はアニメーションならではの評価基準が優先して頭に浮かぶ。
動画枚数を多く使うのが良いのなら『エースをねらえ!』は良くない作品となる。しかし小生はそうは思わない。
動きのなめらかさを求めるならディズニーの諸作品はすべて良作となる。しかし小生はそうは思わない。
「時代を取り込んだ」のなら『アキラ』は傑作なのだろう。しかし小生はそうは思わない。
「リアルな物語」なら『機動戦士ガンダム』は良作か?これにも小生は首をかしげる。
さほど動画枚数を費やさずにキャラクターの動きを表現し、製作当時ならではの物語をリアリティで味付けされた荒唐無稽さをもってつくられている作品の一例として、『ルパンは燃えているか…?!』を見てみる。1972年当時の、フォード・ティレルやマクラーレンやロータスのF1マシンが日本のサーキットを疾駆するなど、「ありえない」作品世界をリアリティをもって描出できるのはアニメーションの独壇場だった。このこともアニメの評価基準のひとつに加えたい。
しかし、近年のCGの進歩はそのことをライブアクションの映像物語にまで押し広げてしまった。ヒトのイマジネーションが先行しても、たとえ後追いであれCGが実現させてしまうのだ。このことは突き詰めれば『ベン・ハー』や『アラビアのロレンス』が低予算で製作可能だという回答が用意されているところまで見えてしまう。
CGがイマジネーションの鏡になってしまうことにたいする反攻の方法は様々だ。ある者は全編人形や粘土でキャラクターを動かす。またある者は…。とまあ拙ブログでは何度も触れた。
気をつけなければならないのは、人形や粘土であれ、質感も含めた再現も、動きのなめらかさやギクシャクさも含めたアナログちっくな表現までも、CGが取って代わることが可能かもしれないということ。「手でつくった温もり」なる宣伝文句の作品ですら、将来CGで再現が可能になるだろう。
だから、ここで考えるのは何のために作品を作るかだ。決してCGにアンチを唱えるわけではない。そしてレイ・ハリーハウゼン氏の言う「楽しみ」であるはずの、「アニメーションらしさ」を求めようではないかと、作者は手描きで、動く絵本をつくりあげたのだ。
ポニョがたまに日野日出志キャラに見えてしまうのがちょっとコワイけど。

試しに鉛筆で直線を描いてみるといい。絶対に描けない。必ず曲がる。当然だ。完全な直線など、定規を使おうが水平線も含めて自然界には存在しない。いわんや完全な曲線をや。
だから、「完全なノイズ」を求めて私たちは日々修練し、作品をつくり、または出会い、コンサート会場に足を運ぶ。
修練を積んだスタッフがつくる「完全なノイズ」への追求。
その、一作品が本作である。禅問答だねこれじゃ。(キューブリック監督作品については別稿で)

ストーリといえば例によってツッコミ所は多々ある。地球と月との重力バランスが崩れたあとどうなったとか。水道水に海水魚をつけるとか。「半魚人と陸上人との恋愛がどうなるか?」だって?そんなことは自分で考えてくれ。試しに「夢見がちな孤児と異星人の子孫との恋愛その後」(『ラピュタ』のことだよ)を想像してごらん。
でも、一番大切なのは宗介とポニョの恋愛の成就だ。応援したくなるのが人情というものだ。
「ポニョ、宗介、すき!」だけで済むなら世話ぁないって?
本作ではおとなが取り組まなくてはならない問題が頻出してくる。環境問題啓発などの描写は一々がとても丁寧だ。だが、作劇構成上で大きな時間は割かれていない。あくまで物語の背景として、おとなのじじょうとしてである。だから、リサとグランマンマーレはポニョと宗介に背を向けて話していた。
何を話しているのだろう?
それは君たちがおとなになるにしたがってわかってくることだよ。
子供に『ノンマルトの使者』や『怪獣使いと少年』を見せ、感想文を書かせることはちっとも進歩的なことじゃないんだ。

さらに、『ウォーリー』(12月公開)の予告編を見れば、「CGヴァーサズ手描きの温かさ」議論は過去のものとなるだろうことは予想がつく。もっと大切なことを思考の俎上に乗せねばならない。自戒も込めて言うが、いいかげん気付けよ!