実は拙ブログで取り上げるかどうかずっと迷っていた。というのは、ベトナム帰りというだけで銃器や護身具の扱いやらケガの応急処置やら地勢を読んで敵から身を守る術を心得ている登場人物の設定にたいしてもたせている説得力は、海の向こうの日本の観客には果たして理解されるのか?とおもうからだ。米国現代史を知っているのといないのとでは受ける感動が違うからだ。そこまでわかる必要が一観客に必要か?という疑問は実際今もある。
だから、作品そのものの普遍性を云々する前に、およそひと時代対外戦争がなかった日本ではピンとこない観客がほとんどだろうと思ったのだ。さらに、そんな平和日本を「世界史上では異常」と決めてかかるのも下品だなあともおもうし。
だから、本作を語る際には技法的なことに絞られてしまう。
話はクスリ取引の仲間割れでギャングがみんな死んじゃった現場に出くわし、そこで思わぬ大金を拾ったベトナム帰りが金目当ての追っ手から逃げるが…。というもの。「突破口」じゃないかと言う向きもあろうが、全く違う。少なくともサスペンスを盛り上げる加速度的テンポやどんでん返しは見あたらない。
戦争の記憶が生々しい時期、例えば「ディア・ハンター」や「ランボー」や「帰郷」がつくられていた時期に作りえない作品なのだろう。風景はあくまでテキサスやニューメキシコだが、登場人物は戦争でイカれただけではなく一程度の知恵も手に入れた大人たちと、「勝手に殺し合えお前ら」的諦念をもった老保安官と、若者たちは皆間抜け面が揃う。
西部劇の一つなのか?いや、本作と大陸内フロンティアにベトナムでの価値観を持ち込んだ例として「ランボー」(は北部の森林ですね、ゴメン)などを同列にはできない。「地獄の黙示録」で自分たちのモノサシで測れない文明に触れたとたんにヘタレな撤退を余儀なくされたニューシネマの過去もあるが、本作の原風景はあくまで大平原だ。
そんな舞台設定で、恐らく第二次大戦または朝鮮戦争に従軍したであろう老保安官に、現在(1980年当時)を嘆かせ、リアリティを掘り下げようとしている。ベトナム戦争後の、測り知れない狂い方の人物が、「360度地平線に囲まれた(のどかな)密室(であり、またあるときは我が家)」で、ゆったりしたテンポでチェイスを演じるし、時にはまるで戦場にいるかのような身体能力を発揮する。そして殺し屋は生き残る法則をゆずらない。殺し屋の禅問答の転がり方如何によっては眼前の市井人をあっさり殺しただろう演出も見事。それは異常なのか?同じベトナム帰還兵が何人も登場するが、大平原における彼ら個々人の掟にケチなどつけられようはずがない。西部劇ではしごくまっとうなキャラクターだ。まして彼らは合衆国政府のために戦った過去があるのだ。そんなイントレランスな生き方が、あるときは交錯し、あるときはすれ違う。あまりにもあっけなく死ぬ者もいるし。
間が持たないなどと言うなかれ。「シェーン」のように馬にゆられてのんびり旅するも、ある瞬間にはクィックドローの接近戦を生き抜くガンマンの伝統が染み付いている土地なのだから。
前述した「ただのよくある物語」でなくするには、ほんの少しリアリティを加えるだけでよい。そんな見本のような作品。この少しのリアリティを加えるのに20年以上かかるのが文化史の一側面なのだということも、再認識した。
あれ?でもこれってアメリカンニューシネマの出発点じゃなかったっけ?
だから、作品そのものの普遍性を云々する前に、およそひと時代対外戦争がなかった日本ではピンとこない観客がほとんどだろうと思ったのだ。さらに、そんな平和日本を「世界史上では異常」と決めてかかるのも下品だなあともおもうし。
だから、本作を語る際には技法的なことに絞られてしまう。
話はクスリ取引の仲間割れでギャングがみんな死んじゃった現場に出くわし、そこで思わぬ大金を拾ったベトナム帰りが金目当ての追っ手から逃げるが…。というもの。「突破口」じゃないかと言う向きもあろうが、全く違う。少なくともサスペンスを盛り上げる加速度的テンポやどんでん返しは見あたらない。
戦争の記憶が生々しい時期、例えば「ディア・ハンター」や「ランボー」や「帰郷」がつくられていた時期に作りえない作品なのだろう。風景はあくまでテキサスやニューメキシコだが、登場人物は戦争でイカれただけではなく一程度の知恵も手に入れた大人たちと、「勝手に殺し合えお前ら」的諦念をもった老保安官と、若者たちは皆間抜け面が揃う。
西部劇の一つなのか?いや、本作と大陸内フロンティアにベトナムでの価値観を持ち込んだ例として「ランボー」(は北部の森林ですね、ゴメン)などを同列にはできない。「地獄の黙示録」で自分たちのモノサシで測れない文明に触れたとたんにヘタレな撤退を余儀なくされたニューシネマの過去もあるが、本作の原風景はあくまで大平原だ。
そんな舞台設定で、恐らく第二次大戦または朝鮮戦争に従軍したであろう老保安官に、現在(1980年当時)を嘆かせ、リアリティを掘り下げようとしている。ベトナム戦争後の、測り知れない狂い方の人物が、「360度地平線に囲まれた(のどかな)密室(であり、またあるときは我が家)」で、ゆったりしたテンポでチェイスを演じるし、時にはまるで戦場にいるかのような身体能力を発揮する。そして殺し屋は生き残る法則をゆずらない。殺し屋の禅問答の転がり方如何によっては眼前の市井人をあっさり殺しただろう演出も見事。それは異常なのか?同じベトナム帰還兵が何人も登場するが、大平原における彼ら個々人の掟にケチなどつけられようはずがない。西部劇ではしごくまっとうなキャラクターだ。まして彼らは合衆国政府のために戦った過去があるのだ。そんなイントレランスな生き方が、あるときは交錯し、あるときはすれ違う。あまりにもあっけなく死ぬ者もいるし。
間が持たないなどと言うなかれ。「シェーン」のように馬にゆられてのんびり旅するも、ある瞬間にはクィックドローの接近戦を生き抜くガンマンの伝統が染み付いている土地なのだから。
前述した「ただのよくある物語」でなくするには、ほんの少しリアリティを加えるだけでよい。そんな見本のような作品。この少しのリアリティを加えるのに20年以上かかるのが文化史の一側面なのだということも、再認識した。
あれ?でもこれってアメリカンニューシネマの出発点じゃなかったっけ?