「人間を描く」なる紋切り型がある。人の内面の葛藤や、心理線をたどる描写をきちんとふまえたドラマづくり、そして、時に人格なるものは善行もなせば、裏切り、罪をも犯す。そのような可塑性も備えているという当たり前のことを、とりわけアニメーションの表現として創ろうとしたのは、ディズニーの作品史の中では「美女と野獣」が最初と言っていいと思う。(「リトルマーメイド」でもその萌芽はあったが)
翻って和製アニメでは、「太陽の王子ホルスの大冒険」、特にヒルダの存在が際立っていた。担当アニメーターのもりやすじ氏の仕事として記憶されるべきだと思う。ヒルダのキャラクターが持つ、悲しみや葛藤が如何なく描出されていた。同時期、米国ではネズミを追いかけるネコや、悪漢にラチられた恋人を救うためにホウレン草を食べてパワー百倍とか、足の速い鳥を捕まえようとあの手この手を弄するコヨーテなんかをアニメ作品として作り続けていた。かつてアメリカ人の知人が「日本のマンガは青少年に見せたくない」と言っていたのを覚えている。玉石混交の作品群からの選択云々の理屈は長くなるので略すが、21世紀のネットが覆う社会では、作品群と青少年との調整機関を策定するのは事実上不可能だ。取捨選択は個々人がやるしかない。しかし、そんな調整が、一部であれ可能だった時代、特に米国では「人物、特に内面の描写はライブアクションのもの」とされ、アニメーションはあくまで美しいもの、楽しいものを供するものだとされてきていたのは間違いない。
かく言う筆者も「空飛ぶゆうれい船」の爆発のリアルさに目を輝かせていたり、「ルパン三世」に登場する自動車のサスペンションが沈む具合の描写に瞠目していた。え?ただのオタクだって?
それだけではダメなのだ。何のために爆発するのか、何のために猛スピードで自動車は疾駆するのか、何のために悪と戦うのかを描かないと、暴力のための暴力は確実にその場しのぎの頽廃へと向かう。参加性の高いゲームと変わらない。だから、ディズニーを含めて米国産アニメは一時期滅びかけた。NINTENDOとどこが違うの?というわけだ。人間を描かねば先へは進めないという当然の帰結に気づき、長編アニメーション作品「美女と野獣」はディズニーの作品史におけるターニングポイントとなった。恥ずかしながら筆者自身もこのことに思い至ったのは、実は最近のことだ。
現在日本では週約40本の作品が放送されている。それらのほとんどにおいてキャラクターの心理描写がなされている。米国産のアニメーションに比べて「ホルス」から「美女と野獣」までの間約30年のアドバンテージがある。これが健全なことなのかどうかは別の議論になるのでここでは触れないが、和製ドラマアニメづくりのクリエイションモデルとして確立されているのは確かだ。では、ディズニーではどうしていたかというと、人物描写はもっぱらライブアクションのものだという考えで最近までやってきた。「海底2万マイル」のネモ船長の復讐心などはその最たるものだろう。
その、可塑性を持った人物の内面を描出するライブアクションと、黄金パターンのディズニー製作のアニメーションをくっつけるとどうなるかが本作の見どころ。だから巷間騒がれているお掃除のシーンのセルフパロディのすさまじさを文字通りのすさまじさとして観ることはできなかった。むしろこれまでのディズニーアニメとライブアクション人物描写をどのように噛み合わせてゆくかに注目した。評価は分かれようが、実験的な部分を挙げておきたい。公園でのミュージカルはディズニーアニメの絵コンテをそのままライブ描写したものだが、普通異物(この場合はロバート)が場内に居るばあい、サビ以外の曲の一部もしくは一言(セリフ)をロバートに歌わせる、もしくは語らせるものだがここにはない。アニメから抜け出して来たジゼルがどんどん普通の三十路(失礼)女性に変わってゆく様はダンスパーティの場面で決定づけられる。大人が鑑賞する設定の作風になっている。
王女と王子の関係はどうなった?とか、ツッコミ所は満載だが、木に竹をつなぐ作業をわかっていながらここまで意欲的に取り組んでいるスタッフの姿勢をまずは評価したい。

あとひとつ、いくらひねくれていても、筆者はひたむきで、一本気な生き方には肯定的なのです。