『ジョニーは戦場へ行った』を持ち出してはいけない。作品の言わんとしていることが違う。
女性雑誌編集者のジャン=ドーは脳梗塞で左目以外身体が麻痺してしまう。冒頭罹患から目覚める彼の主眼カメラとマイクで始まり、まばたきを駆使してコミュニケーションを図る。やがてそれは周囲や家族との意思疎通から自伝を書くことに。といった、至ってシンプルな構成…に何とまあ複雑な寓意。想像と記憶は自由だと悟ったときからカメラは客観の位置を取るようになる。
あんなからだになってもあんな美人の療法士がそばにいてくれるようになるにはどうすれば(どうしておけば)いいのだろう。
お金持ちでいること?それもある。
スケベでいること?
生への執着という点で、生きる気力になるなら。
信心深いこと?それもあるかも。
近しい人を愛しつづけること?
ある。限界もあるけど。
変わった着眼点から感動作が生まれるサンプルファイルの一枚として企画屋の引き出しに仕舞われる。だけの存在なら取り上げない。上記の箇条書きはジャン=ドーだけではなく、周囲の健常者たちも同様に、生きる上で心掛けているべきことなのだろう。だから、幸不幸の尺度で罹患前後を比較するのは野暮だ。彼が罹患後はじめて身体の自由を取り戻すのは病院の創立者を愛するためだ。これがまた美人で…筋の通った理屈なのだが、それが与える感動をちゃんと受け止めることができるかな?
そして生きる喜びは強欲や劣情や慈愛や仁徳などが様々な貌をもって入れ替わる。当たり前のことなのだが、筋の通った人格を要求されるドラマ構成の現場では何かと敬遠されがちな描写体(たびたび造語でごめん)だ。
でも、人物心理の移り変わりをちゃんと描くのもドラマの役割だぜ。本作では自由になった記憶を再構成することによって、主人公はちゃんと成長する。もしくは成長していない自分を確認する。ロードムービーの一種としてもとらえられる。
(此彼の「自由」観の違いについてはまたの機会に。重ね重ねすんません)
で、『Quantum of Solace』を早く見たくなった。
女性雑誌編集者のジャン=ドーは脳梗塞で左目以外身体が麻痺してしまう。冒頭罹患から目覚める彼の主眼カメラとマイクで始まり、まばたきを駆使してコミュニケーションを図る。やがてそれは周囲や家族との意思疎通から自伝を書くことに。といった、至ってシンプルな構成…に何とまあ複雑な寓意。想像と記憶は自由だと悟ったときからカメラは客観の位置を取るようになる。
あんなからだになってもあんな美人の療法士がそばにいてくれるようになるにはどうすれば(どうしておけば)いいのだろう。
お金持ちでいること?それもある。
スケベでいること?
生への執着という点で、生きる気力になるなら。
信心深いこと?それもあるかも。
近しい人を愛しつづけること?
ある。限界もあるけど。
変わった着眼点から感動作が生まれるサンプルファイルの一枚として企画屋の引き出しに仕舞われる。だけの存在なら取り上げない。上記の箇条書きはジャン=ドーだけではなく、周囲の健常者たちも同様に、生きる上で心掛けているべきことなのだろう。だから、幸不幸の尺度で罹患前後を比較するのは野暮だ。彼が罹患後はじめて身体の自由を取り戻すのは病院の創立者を愛するためだ。これがまた美人で…筋の通った理屈なのだが、それが与える感動をちゃんと受け止めることができるかな?
そして生きる喜びは強欲や劣情や慈愛や仁徳などが様々な貌をもって入れ替わる。当たり前のことなのだが、筋の通った人格を要求されるドラマ構成の現場では何かと敬遠されがちな描写体(たびたび造語でごめん)だ。
でも、人物心理の移り変わりをちゃんと描くのもドラマの役割だぜ。本作では自由になった記憶を再構成することによって、主人公はちゃんと成長する。もしくは成長していない自分を確認する。ロードムービーの一種としてもとらえられる。
(此彼の「自由」観の違いについてはまたの機会に。重ね重ねすんません)
で、『Quantum of Solace』を早く見たくなった。