オープニングはニューヨークのビルの谷間をエンジン付きキックボードで往く。流麗な移動にニューミュージックが重なり、80年代NY派を彷彿とさせるし、ヒューマンドラマの導入部としても安心感が与えられる。
歯科医を開業しているアラン・ジョンソンはしばらく音信不通だった大学時代のルームメイトのチャールズを見かけるが、気づいてもらえなかった。実は彼は9.11で家族をいっぺんに亡くしていたのだ。程なくして再びチャールズを見かけたアランは彼に声をかけるが、彼はアランのことを覚えていなかった…
話すことによってつらい記憶を呼び覚まし、傷口を広げる営みは、人間はコミュニケーションの動物である以上、かわすことのできない向こう傷だ。質問を投げかける側はその質問が話し相手にとっていかなる存在なのか知らないのだから。そして質問者は事情を知って「悪いことを聞いてしまった」と反省し、被質問者は「事情を知らなかったのだ、気にするな」と紋切り型の会話でおわる。しかし精神に異常をきたしてしまったほどのPTSDを抱え込んでしまったチャールズにとっては…。彼は亡き家族の記憶を封印し、9.11で家族を失う前の、楽しかった時代を共有できる友人と刹那的な時間を過ごす。学生時代に好きだった音楽とともに。
誰からも救われない傷など誰にでもある。時間が癒してなどという文脈も止そう。
チャールズの奇矯な振る舞いや癇癪、そして過去を語るシーンはともすれば唐突だ。しかし、唐突なのは当然なのだ。NYがカンダハルだろうがファルージャだろうが東京だろうがカタストロフィは伏線もなくいきなりやってくる。その後も人は様々な、笑いあり涙あり、イカれた人とも付き合う複雑さに辟易しながらも人間関係をこなして人生を続けてゆくのだろう。
そこには納まりの良い物語などあるわけがない。当然のことだ。

半世紀後、時のジェリー・ブラッカイマーもどきに9.11を題材にした「パールハーバー」ならぬ「グラウンド・ゼロ」を撮らせないぞと風呂敷を広げてみる。自分の身の丈に合わせて作品をつくっても、覆える風呂敷になりうる性根のすわった作品。