静止したフレームに画像もしくは写真が一秒間に24枚連続して流れる。残像なる現象が起こって静止しているはずのフレームに画像が動いているかのように見える。これに音声が加わり、視覚と聴覚に訴え、臨場感をかもし出す。
活動写真の定義を連ねたのは、アニメーションの定義が全くあてはまるからだ。ならば自作の絵画に動きを与えることも可能だと思い立った画家や美術家も大勢いたであろうことは想像に難くない。
ある者はパラパラまんがよろしく一枚一枚絵を描き重ねていったことだろうし、またある者は関節が自在に動かせ、かつ固定可能な人形を一コマ一コマ撮影していったことだろう。
しかし、CGや複写機が無かった時代はある程度の細密さをもった絵を動かすことなど、よほどの資本力の下でしかなしえない人海戦術であったこともまた想像できる。背景画に透明な板を重ね、その上に線画に彩色した登場人物やアイテムを描き重ねていく手法、いわゆるセルアニメーション(以下セルアニメ)もまた、創製される必然があった。それでも大きな資本の下でないと具現化は覚束なかった時代が長く続いた。もちろん、人形を使ったものやセルを使わない絵画を重ねる方法も独自の表現の幅を広げていった。
話を日本に限定すると、アニメーションはセルアニメ群を中心とした、とてもいびつな形で発展してきてしまった。結果、キャラクターへの偏愛を招き、過酷な制作体制下で時折生み出される意欲作とも相俟って、マーチャンダイジングと結びついて一大市場を形成するに至った。もちろん、『太陽の王子ホルスの大冒険』以降、セルアニメでもドラマ並みの人物描写が可能だという邦画アニメの世界市場におけるアドバンテージ独占については肯定する。ただ、絵が持つ力-特に美術性においては乏しい実感がある。現状「まんが日本昔話」以降、私が出会っていなかっただけなのかもしれないが。
美術性と言ったが、現在テレビで放映されている大量のアニメーション番組群は、いずれもセルアニメーションの流れをくむもので、SF、ラブコメディ、ジュブナイル、ファンタジーやホラーが中心だ。セルアニメは線画にムラのない単一色を塗り込め、極めてノイズの少ない絵が得られるため、キャラクターの感情がとてもピュアにかつ力強く表現できる。反面、喜怒哀楽しか描けず、アニメーターは複雑な表情の表現に四苦八苦するのは昔も今も変わらない。畢竟、単純化された記号としてわかりやすい子供向けの作品が多数を占める。ってのが、一昔前の理屈だったが、現在はそれこそかなり複雑な表情のアニメ化すら可能になった。アニメーターのスキル向上や前述の「アドバンテージ」がそれを可能にした。さらにコンピュータの導入による製作工程のダウンサイジング化は新海誠監督作品など、80年代には考えられなかったことまで実現した。
山崎監督の作品群はそんな中、原作を独自に解釈し、時間のデフォルメを計算しつつ一枚一枚サインが入っていてもよい程に手で描き込まれた絵を重ねてゆく、技法というより本来のアニメーションでしかなしえない表現で迫ってくる。三白眼のキャラクターは私にはコワイけど。

レイ・ハリーハウゼン氏が特撮を担当した作品群が今もなお根強いファンを獲得しているのはそういうわけだ。

ってああもう、何カッコつけてんだ、平たく言う、筆者は学生時代にカフカの影響を強く受けた。自主制作映画を作っていたが、カフカの作品世界は必要なもの以外は夾雑物を排した舞台、単純なキャラクター、色もモノトーン調で統一すれば済むといった、いたって容易に作りこめて、スタッフ間のイメージも統一しやすいこと(何より安く済む!)、さらに物語においては不条理が現実照射の力になり、寓意の表現もなしうると、若かった小生は考えたわけだ浅慮にも。あー恥ずかしい。
本作ではアニメーションならではのデフォルメ-キャラクターの身体の一部が肥大したり、ありえない動きや時間の拡大が、小説のもつ表現もしくは解釈-一挙手一投足に込められた意味や情念を説明する。すなわち、アニメーションこそが、とりわけカフカの小説のヴィジュアル化に最も適っているのではないかと思えてくる。
そして茂山千作氏(師)の声の演技。情念ですら記号にしてしまう様式-狂言によって鍛えられた言葉には恐れ入るしかない。その、歴史によって鍛えられた様式音声(造語ですまん)が、作品世界を統一している。
アニメーションこそが、小説のヴィジュアル化に最も適っているのではないかだって?
かつて黒澤明は『白痴』で演者の表情に文章の饒舌さを塗り込めようとしたらしい。観た直後「よくわからんがスゲー作品だ(原作未読)」と思った記憶がある。成功失敗はともかく、森雅之(ムイシュキン)と原節子(ナターシャ)のクローズアップでの表情はすさまじい。しかし、それはライヴアクション映画物語の限界でもある。文章表現の饒舌さを人間の表情に置き換えることは不可能なのだとわかったのも事実。
もちろん、それはあくまで人物の表情に限ってのことであって、溝口や小津作品の映画としての語り口はスゴいし、三隅研次監督作品などはシナリオの欠陥を演出で補うプログラムピクチャー演出の冴えを目撃できる。えーと何が言いたいんだっけ?アニメだったな。
アニメについて考えを進めると、普通の劇映画との境がなくなってしまっていることに気付くことがよくある。今回はコレがテーマってことで許してください。