観た作品でここでは取り上げなかったものについて少々。
前提として、拙ブログの読者には映画を観てほしいという願いがある。
だから、緻密に論を構築した評論家が述べるような文章や、鑑賞意欲を損なうものはアップできない。それでも取り上げる場合は「完全なノイズ」で半ばパロディ批評じみた感想を開陳することになった。
また、あまりの観客の不入りからくる観客への悪口や、作品の出来の悪さを目の当たりにしてでてくるスタッフの悪口も書きたくない。
素人批評にたいして理屈を述べるのも大人気ないし、見に行った単館公開の話題作にいた少数の観客のほとんどが玄人だったりの場合も同様。
小生が面白いと感じた作品に限らず、映画を観に行ってほしいのだ。
そして、拙文の内容が余りにもマニアック過ぎて、第三者が読んでも何言ってんだかわかんない文章になってしまったりとか(いつもじゃねーか)、観たけど単なる怠惰で書かなかっただけのものもある。
もうおわかりだと思うが、私は映像関係の仕事をして糊口をしのいでいる。だから、裏方の仕事がいかにしてスクリーンに反映されるかをある程度は知っているつもりだ。しかし、所詮は人間の集まりである以上、なるようにしかならない場もたくさん知っている。(いかん、プロデューサー批判になりかけている)
では何故、「海と毒薬」の悪口を書いたのかと問われれば、見て、批評してほしいからだ。世評が概ね好評だったことが私見とあまりにもかけ離れていたからだ。それでも書くことこそが、故熊井啓監督にたいする供養になると思う。故ベルイマン監督にいたっては「映画と知性をとったらただのエロジジイ」なる人物評は定着しつつあっても作品の評価は変わらないし。ここまでくるとワーグナーみたいだね。
観て欲しい作品を挙げる(順不同)。
「リトル・ミス・サンシャイン」の健全さ、「サイドカーに犬」は演出の的確さ、「河童のクゥと夏休み」は安原義人扮するオッサンの存在、「天然コケッコー」のスリリングさ、「不自然なふたり」の自然さ、「長江哀歌」のどうしようもなさ(が、良いのです、勘違い無きよう)を感じてほしい。
鬼が笑う話だが、実写版『ヤッターマン』はボヤッキーのキャスティングに尽きると思う。
前提として、拙ブログの読者には映画を観てほしいという願いがある。
だから、緻密に論を構築した評論家が述べるような文章や、鑑賞意欲を損なうものはアップできない。それでも取り上げる場合は「完全なノイズ」で半ばパロディ批評じみた感想を開陳することになった。
また、あまりの観客の不入りからくる観客への悪口や、作品の出来の悪さを目の当たりにしてでてくるスタッフの悪口も書きたくない。
素人批評にたいして理屈を述べるのも大人気ないし、見に行った単館公開の話題作にいた少数の観客のほとんどが玄人だったりの場合も同様。
小生が面白いと感じた作品に限らず、映画を観に行ってほしいのだ。
そして、拙文の内容が余りにもマニアック過ぎて、第三者が読んでも何言ってんだかわかんない文章になってしまったりとか(いつもじゃねーか)、観たけど単なる怠惰で書かなかっただけのものもある。
もうおわかりだと思うが、私は映像関係の仕事をして糊口をしのいでいる。だから、裏方の仕事がいかにしてスクリーンに反映されるかをある程度は知っているつもりだ。しかし、所詮は人間の集まりである以上、なるようにしかならない場もたくさん知っている。(いかん、プロデューサー批判になりかけている)
では何故、「海と毒薬」の悪口を書いたのかと問われれば、見て、批評してほしいからだ。世評が概ね好評だったことが私見とあまりにもかけ離れていたからだ。それでも書くことこそが、故熊井啓監督にたいする供養になると思う。故ベルイマン監督にいたっては「映画と知性をとったらただのエロジジイ」なる人物評は定着しつつあっても作品の評価は変わらないし。ここまでくるとワーグナーみたいだね。
観て欲しい作品を挙げる(順不同)。
「リトル・ミス・サンシャイン」の健全さ、「サイドカーに犬」は演出の的確さ、「河童のクゥと夏休み」は安原義人扮するオッサンの存在、「天然コケッコー」のスリリングさ、「不自然なふたり」の自然さ、「長江哀歌」のどうしようもなさ(が、良いのです、勘違い無きよう)を感じてほしい。
鬼が笑う話だが、実写版『ヤッターマン』はボヤッキーのキャスティングに尽きると思う。