『猿の惑星』(1968年公開 以下公開年下二桁のみ表示)で不時着した惑星上の砂漠をさまよう乗組員たちがひとつかみの植物を見つけた時に狂喜したのを見て「おお、サイエンスフィクションしとるやないか」と嬉しくなった。数十分後、それは「自由の女神見るまでココが地球やとわからんのか!」というツッコミに変わっていた。
当時年齢はヒトケタ。
マセガキである。
『未来惑星ザルドス』(74)の寓話性を認めながらも、情報記憶の結晶体としてのクリスタルはいずれコンピューターにとってかわられるだろうと思った。
当時小学生。
思弁性が芽生えた。
サイバーパンク以降、サイエンスフィクションはスペキュレイティヴフィクションへと呼称が変わっていった。
で、「81/2」(64)
生まれてはいた。
既に定評を得ていた映画作家が次回作に取り組むが何を作ればいいのかわからず、悩む。いや、つくりたい画面や演出はあるのだ、それを形にする物語が思い浮かばない。現実逃避や幼少の自分にまで作品づくりの動機を探りに遡る。しかし、マスコミは次回作は?と聞いてくる。妻や愛人は皆魅力的だが、その愛に答えられないし、批評家も口うるさい。脚本家などは絞首刑に処してやろうかとさえ思う。私を使ってと近づく自称女優もいれば、監督に冷ややかな女優もいる。クランクイン当日は彼ら彼女らを並べてダンスに興じる…。
破壊か?いや、冒頭の渋滞や、温泉保養地での着飾った醜塊なるジジババ共が炎天の下、(何とある者はカメラに愛嬌すらふりまきながら)ニコニコと生の饗宴を繰り広げているあたりは間違いなくフェリーニ節だ。その冒頭…
渋滞時、ある車の運転席からの主眼。トンネルの出口らしい。周囲の車はじっと待つ者、同乗者と交情する者など様々。不意にエアコンから得体の知れないガスが出てくる。息苦しくて車から出ようとするがドアも窓も開かない。周囲はそれをじっと見たまま動かないし、乗り合いバスの乗客などは両手をぶらりと見せたまま動かない。やっと脱出に成功、大空へ飛翔する、しかし凧揚げよろしく地上からつながれたロープで引き戻されて落下する。てところで夢オチ。
ムンクの『叫び』における、画面中央にいる叫ぶ者と下手に立ち去る人影の対比にも似た、想像力を刺激する静止画(本編はストップモーションではない)を重ねることで、夢の中におけるリアリティを定着させている。念のために付け加えるが、夢の中におけるリアリティとは、醒めたとたん「なーんだ、夢か」だが、夢の中では登場人物の一人として真剣であり必死という意味。
夢とは元々主観的なものだから、多面的であるわけがない。さめても悪夢的な現実が待っている。保養地での一連のジジババの享楽ぶりは、ある種の醜塊美すらたたえている。顔色を取り戻す主人公グイドは、スタッフやキャストやマスコミなど取り巻きを煙に巻きながら、実はクランクインまで脚本-構想が定まらず、いきおい宇宙ロケットのオープンセットまで作らせてしまう。プロデューサー泣かせだって?知ったことか!となる。
夢と現実と、その境界面である戯画化された現実、そして幼少時の記憶の断片。それら4つのレイヤーが並行して物語は進んでゆくのだが、どう見ても現実世界の出来事なのにフェリーニの美学でデザインしつくされた描写がでてきたりと、レイヤーを分かつルールも破綻気味だ。でもそれらは作家の描写時のルール上そうなっているだけのことで、美学なのだと言われれば、納得するしかない。私などもその美学にハマってしまった一人なのだが。
国際映画祭の作品群に触れるにつけ、中途半端ではなく、映画って何やったっていいんだと思う。それこそ、コンペ作品に堂々と企業のタイアップ場面があったっていい。しかし、作品中におけるルールは作家のものであって、そのルールを評価対象とされる覚悟は監督個々人が持っているはずだ。
本作から文字通りの「何でもあり」フェリーニの作品歴が始まる。自主映画だ個人映画だのはおかまいなし。結局観客を楽しませるのは主観を通したものでしかない。ジャコメッティの立像や猫を初めて見た時の既視感は鑑賞者が持っている「このように見える」部分を拡大して見せたもので、誰が主観のみの作品だと言い放てようか。もっと言えば、主観の一部分を拡大させることによって、客観に近づく行いすなわちキュビスムの一面にもあてはまる。
「監督・ばんざい!」のように、文字通りの多面体的作品を狙うのは結構。しかし、X線画像の氏名がKUROSAWAやIMAMURAなどディテールに堕してしまってはお粗末だ。
ホームドラマもホラーも忍者も詐欺師(こっちは本職か)も失敗するが、これがもし北野監督のオリジナルストーリーを小津やマキノや黒澤や一時期の角川映画調でやったらどうなっていたか、なーんて『贋作時をかける少女』を描いたとり・みき並の器用さは求めまい。相変わらず手抜きを手抜きに見せない、または楽チンな方へ行ってるのにそう感じさせない手腕は大したものだ。だが、「監督・ばんざい!」はそれが頭打ちになっているのも事実。
監督人形を持ち歩く北野監督は逃げているように見えて仕方がなかった。あ、そうか、自分の選択肢を狭めるストーリーだったな。そして主観の一部分を拡大しきれず(毒を吐いてるようで絶妙に調節されている)全てを吹っ飛ばして終わる。(吹っ飛ばされて落ちてきたところが次回作の冒頭だったりして)
残るはヒト、モノ、カネ、時間をかけた、元来の映画づくりへ自身を追い込んだ作品となろうが、北野監督自身がそれをどう裏切ってくれるかが楽しみ。
そして、裏切り切れないのが北野監督の芸人(または芸)にたいする愛情。『座頭市』(03)では作品そのものが芸人への愛情だった。「監督・ばんざい!」では愛情を裏切っているフリをしている(芸人芸人した芸人が出ていない。唯一江守徹は絶品)。フェリーニも結局裏切り切れず、付き合っていった作品歴があるではないか。
チャンバラ映画見てて変だなと思うのが何で悪役は一人ずつヒーローに斬りかかるのか?抜刀した皆で囲んでいっせーのでやあッてやったらオワリでしょうに。勿論それにたいする答え(リアリティ)はサイレント期に解決されていたのだが。現代は垂直に跳びあがって『マトリックス』ってなもんだ。でも、『座頭市』で迫力ある殺陣とか聞くと、困ってしまう。
冒頭、後方から斬りかかってくる敵に逆手で抜いて脇越しに突き殺す。これを実際にやるには半歩以上後方へ飛び退かないと、敵の懐に跳び込めず、物理的に不可能なのだ。市vsサンシタ集団にしても、見切りが完全にできていても斬りかかるよりも早く避ける動作にはいってるのをスローでやられても、ああ、なるほどね。殺陣(段取り)だね。とシラケてしまう。ある程度音楽でカバーできても。
斬ったら傷が出来て血が噴出すことにのみCGを使っているのが何とも勿体無い。ちゃんと切先が伸びて人を斬っているリアリティを与えるCGは求めすぎかなー。斬ってなくても『侍』(65)の三船敏郎のように、どうやってこの囲みを斬り抜けるんだという状況で実際切り抜けて見せる身体能力は『椿三十郎』より上だと思う。CG使うなら刀を振り回す者同士の位置関係や間合い、身体能力の方でしょう。え?役者が演じる意味ないって?
もうおわかりでしょう、暴力描写以外のリアリズムを描くことができないって。「昭和30年代下町の描写」があるって?冗談、本物はあんなもんじゃないよー。かつてのウチの近所なんかとても描けません。
『千と千尋の神隠し』(01)で正統派へ戻ってきたようで実は構成が破綻している。なのに演出力で見せきる宮崎駿のワザも同様。
そういえば、81/2の主人公グイドは冒頭の夢の中で、逃亡に失敗するのだった。
地に足、ついてる?そして愛し合ってる?逃げられないよ、もう。
当時年齢はヒトケタ。
マセガキである。
『未来惑星ザルドス』(74)の寓話性を認めながらも、情報記憶の結晶体としてのクリスタルはいずれコンピューターにとってかわられるだろうと思った。
当時小学生。
思弁性が芽生えた。
サイバーパンク以降、サイエンスフィクションはスペキュレイティヴフィクションへと呼称が変わっていった。
で、「81/2」(64)
生まれてはいた。
既に定評を得ていた映画作家が次回作に取り組むが何を作ればいいのかわからず、悩む。いや、つくりたい画面や演出はあるのだ、それを形にする物語が思い浮かばない。現実逃避や幼少の自分にまで作品づくりの動機を探りに遡る。しかし、マスコミは次回作は?と聞いてくる。妻や愛人は皆魅力的だが、その愛に答えられないし、批評家も口うるさい。脚本家などは絞首刑に処してやろうかとさえ思う。私を使ってと近づく自称女優もいれば、監督に冷ややかな女優もいる。クランクイン当日は彼ら彼女らを並べてダンスに興じる…。
破壊か?いや、冒頭の渋滞や、温泉保養地での着飾った醜塊なるジジババ共が炎天の下、(何とある者はカメラに愛嬌すらふりまきながら)ニコニコと生の饗宴を繰り広げているあたりは間違いなくフェリーニ節だ。その冒頭…
渋滞時、ある車の運転席からの主眼。トンネルの出口らしい。周囲の車はじっと待つ者、同乗者と交情する者など様々。不意にエアコンから得体の知れないガスが出てくる。息苦しくて車から出ようとするがドアも窓も開かない。周囲はそれをじっと見たまま動かないし、乗り合いバスの乗客などは両手をぶらりと見せたまま動かない。やっと脱出に成功、大空へ飛翔する、しかし凧揚げよろしく地上からつながれたロープで引き戻されて落下する。てところで夢オチ。
ムンクの『叫び』における、画面中央にいる叫ぶ者と下手に立ち去る人影の対比にも似た、想像力を刺激する静止画(本編はストップモーションではない)を重ねることで、夢の中におけるリアリティを定着させている。念のために付け加えるが、夢の中におけるリアリティとは、醒めたとたん「なーんだ、夢か」だが、夢の中では登場人物の一人として真剣であり必死という意味。
夢とは元々主観的なものだから、多面的であるわけがない。さめても悪夢的な現実が待っている。保養地での一連のジジババの享楽ぶりは、ある種の醜塊美すらたたえている。顔色を取り戻す主人公グイドは、スタッフやキャストやマスコミなど取り巻きを煙に巻きながら、実はクランクインまで脚本-構想が定まらず、いきおい宇宙ロケットのオープンセットまで作らせてしまう。プロデューサー泣かせだって?知ったことか!となる。
夢と現実と、その境界面である戯画化された現実、そして幼少時の記憶の断片。それら4つのレイヤーが並行して物語は進んでゆくのだが、どう見ても現実世界の出来事なのにフェリーニの美学でデザインしつくされた描写がでてきたりと、レイヤーを分かつルールも破綻気味だ。でもそれらは作家の描写時のルール上そうなっているだけのことで、美学なのだと言われれば、納得するしかない。私などもその美学にハマってしまった一人なのだが。
国際映画祭の作品群に触れるにつけ、中途半端ではなく、映画って何やったっていいんだと思う。それこそ、コンペ作品に堂々と企業のタイアップ場面があったっていい。しかし、作品中におけるルールは作家のものであって、そのルールを評価対象とされる覚悟は監督個々人が持っているはずだ。
本作から文字通りの「何でもあり」フェリーニの作品歴が始まる。自主映画だ個人映画だのはおかまいなし。結局観客を楽しませるのは主観を通したものでしかない。ジャコメッティの立像や猫を初めて見た時の既視感は鑑賞者が持っている「このように見える」部分を拡大して見せたもので、誰が主観のみの作品だと言い放てようか。もっと言えば、主観の一部分を拡大させることによって、客観に近づく行いすなわちキュビスムの一面にもあてはまる。
「監督・ばんざい!」のように、文字通りの多面体的作品を狙うのは結構。しかし、X線画像の氏名がKUROSAWAやIMAMURAなどディテールに堕してしまってはお粗末だ。
ホームドラマもホラーも忍者も詐欺師(こっちは本職か)も失敗するが、これがもし北野監督のオリジナルストーリーを小津やマキノや黒澤や一時期の角川映画調でやったらどうなっていたか、なーんて『贋作時をかける少女』を描いたとり・みき並の器用さは求めまい。相変わらず手抜きを手抜きに見せない、または楽チンな方へ行ってるのにそう感じさせない手腕は大したものだ。だが、「監督・ばんざい!」はそれが頭打ちになっているのも事実。
監督人形を持ち歩く北野監督は逃げているように見えて仕方がなかった。あ、そうか、自分の選択肢を狭めるストーリーだったな。そして主観の一部分を拡大しきれず(毒を吐いてるようで絶妙に調節されている)全てを吹っ飛ばして終わる。(吹っ飛ばされて落ちてきたところが次回作の冒頭だったりして)
残るはヒト、モノ、カネ、時間をかけた、元来の映画づくりへ自身を追い込んだ作品となろうが、北野監督自身がそれをどう裏切ってくれるかが楽しみ。
そして、裏切り切れないのが北野監督の芸人(または芸)にたいする愛情。『座頭市』(03)では作品そのものが芸人への愛情だった。「監督・ばんざい!」では愛情を裏切っているフリをしている(芸人芸人した芸人が出ていない。唯一江守徹は絶品)。フェリーニも結局裏切り切れず、付き合っていった作品歴があるではないか。
チャンバラ映画見てて変だなと思うのが何で悪役は一人ずつヒーローに斬りかかるのか?抜刀した皆で囲んでいっせーのでやあッてやったらオワリでしょうに。勿論それにたいする答え(リアリティ)はサイレント期に解決されていたのだが。現代は垂直に跳びあがって『マトリックス』ってなもんだ。でも、『座頭市』で迫力ある殺陣とか聞くと、困ってしまう。
冒頭、後方から斬りかかってくる敵に逆手で抜いて脇越しに突き殺す。これを実際にやるには半歩以上後方へ飛び退かないと、敵の懐に跳び込めず、物理的に不可能なのだ。市vsサンシタ集団にしても、見切りが完全にできていても斬りかかるよりも早く避ける動作にはいってるのをスローでやられても、ああ、なるほどね。殺陣(段取り)だね。とシラケてしまう。ある程度音楽でカバーできても。
斬ったら傷が出来て血が噴出すことにのみCGを使っているのが何とも勿体無い。ちゃんと切先が伸びて人を斬っているリアリティを与えるCGは求めすぎかなー。斬ってなくても『侍』(65)の三船敏郎のように、どうやってこの囲みを斬り抜けるんだという状況で実際切り抜けて見せる身体能力は『椿三十郎』より上だと思う。CG使うなら刀を振り回す者同士の位置関係や間合い、身体能力の方でしょう。え?役者が演じる意味ないって?
もうおわかりでしょう、暴力描写以外のリアリズムを描くことができないって。「昭和30年代下町の描写」があるって?冗談、本物はあんなもんじゃないよー。かつてのウチの近所なんかとても描けません。
『千と千尋の神隠し』(01)で正統派へ戻ってきたようで実は構成が破綻している。なのに演出力で見せきる宮崎駿のワザも同様。
そういえば、81/2の主人公グイドは冒頭の夢の中で、逃亡に失敗するのだった。
地に足、ついてる?そして愛し合ってる?逃げられないよ、もう。