数ある娯楽作品群の中で、ノリ(感情)をフィルム任せにして後悔しない作品はとても貴重だ。本作のような一々が私の琴線に触れる内容ならばなおさらで、20年以上前になるか、一連のジャッキー・チェン主演作品群は30年位経ってから再評価されるだろうと友人が言っていたのに共感したのを覚えている。今も同感だが、その評価を軽々と越えてしまった。
かつてのどの作品かは失念したが、爆弾解体や、手錠切断の手際などのディテールに垣間見える取材の入念さが本作でも見てとれる点に注目してしまう。オタクにたいするくすぐりと、ベタで荒削りだが骨太なプロットに単純で覚えやすいキャラ設定、限界(を超えてるね)のアクションと、力押しの演出とが絶妙のバランスで展開される手腕には舌を巻く。
そして忘れてならないのはワイヤーワークやCGの導入は、あくまで肉体派アクションが困難になったことにたいする補完のためであることで、アクションのためのアクションにならぬよう留意されており、テーマである「近しい者にたいする愛情」は外さない。マイケル・ホイ扮する大家が認知症の妻との暮らしを大切にしている部分はジャッキー扮するサンダルや相棒のルイス・クー扮するフリーパスがそれぞれ抱える事情と同列に描かれ、決してサイドエピソードとして「浮いて」いない。動機付けとしても活きている。モチベーション設定の困難さがシナリオ創作の課題になって久しいが、愛情の再帰を描く際、笑いと涙の相性は元来良いはずで、脚本のベニー・チャンはそれらをきちんと使いこなせるストーリーテラーであることを特筆しておこう。
撮影当日に予定カットの台本を始めて配布される手法はまだやってるのかな?この手法は北野武監督の現場が有名だが、北野監督の作品群ではサプライズやどんでん返しを物語上で狙う場合、どうしても前の場面で、雰囲気や匂いとして「あとで何かあるな」とか、「この登場人物は途中でくたばるな」などと予感させる一種の“匂い”をフィルムから消去する目的がある。香港映画での場合元々は盗作を避けるのが目的なのだが、副次的な効果として一つ一つの撮影でのシチュエーションにスタッフ・キャストが可能な限りピュアな感覚で役(仕事)に取り組むため、現場での体を張ったアクションをつくる意欲もあいまって、個々の場面がとても純粋な熱気を帯びることになる。深味がないって?それはストーリーの役目でしょうと、こうもあっさりと割り切られれば、返って心地よい。
安心して手に汗握り、笑うべきところで笑い、泣かせどころで涙する。それらは安売りではなくきちんと必然や事情が説明されているよ。
かつてのどの作品かは失念したが、爆弾解体や、手錠切断の手際などのディテールに垣間見える取材の入念さが本作でも見てとれる点に注目してしまう。オタクにたいするくすぐりと、ベタで荒削りだが骨太なプロットに単純で覚えやすいキャラ設定、限界(を超えてるね)のアクションと、力押しの演出とが絶妙のバランスで展開される手腕には舌を巻く。
そして忘れてならないのはワイヤーワークやCGの導入は、あくまで肉体派アクションが困難になったことにたいする補完のためであることで、アクションのためのアクションにならぬよう留意されており、テーマである「近しい者にたいする愛情」は外さない。マイケル・ホイ扮する大家が認知症の妻との暮らしを大切にしている部分はジャッキー扮するサンダルや相棒のルイス・クー扮するフリーパスがそれぞれ抱える事情と同列に描かれ、決してサイドエピソードとして「浮いて」いない。動機付けとしても活きている。モチベーション設定の困難さがシナリオ創作の課題になって久しいが、愛情の再帰を描く際、笑いと涙の相性は元来良いはずで、脚本のベニー・チャンはそれらをきちんと使いこなせるストーリーテラーであることを特筆しておこう。
撮影当日に予定カットの台本を始めて配布される手法はまだやってるのかな?この手法は北野武監督の現場が有名だが、北野監督の作品群ではサプライズやどんでん返しを物語上で狙う場合、どうしても前の場面で、雰囲気や匂いとして「あとで何かあるな」とか、「この登場人物は途中でくたばるな」などと予感させる一種の“匂い”をフィルムから消去する目的がある。香港映画での場合元々は盗作を避けるのが目的なのだが、副次的な効果として一つ一つの撮影でのシチュエーションにスタッフ・キャストが可能な限りピュアな感覚で役(仕事)に取り組むため、現場での体を張ったアクションをつくる意欲もあいまって、個々の場面がとても純粋な熱気を帯びることになる。深味がないって?それはストーリーの役目でしょうと、こうもあっさりと割り切られれば、返って心地よい。
安心して手に汗握り、笑うべきところで笑い、泣かせどころで涙する。それらは安売りではなくきちんと必然や事情が説明されているよ。