忌まわしい事件に取材した同じ社会派ならばと「海と毒薬」(熊井啓)を並べてみる。
スタッフは監督の意図に沿った仕事をして結果を出しているし、俳優の演技も熱がこもっている。しかし、このうすら寒さは何だろうと考える。そもそも、九州大学生体解剖事件に題材をとって、苦労して作品にする必要があるのだろうかとさえ思われてくる。動機不明なのか?いや、忌まわしい事件を映画物語にして世に問う行為を否定はすまい。社会の矛盾に怒り、使命感に燃えて作品に結実させるおこないは決して間違っていない。戦争に全ての罪をなすりつける行為は正しくないというのもわかる。思うに作者は視点と立脚点の確認を怠っていたのではないか。知らず知らずのうちに硬質な画面で一歩引いて、一段上からの視座に身を置いていた自身への確認を忘れていたのではないか?そして何より社会派を標榜するなら最も大切な啓発に至っていない。
状況や時代の空気に支配され、止む無く許されない行為に至ってしまった罪悪感にさいなまれる登場人物もいれば、当時の状況の中ではエリートはこういう生き方しかなかったのだというキャラも出ている。しかし、彼らの描かれ方があまりにも一面的、右往左往するだけで感情移入できない。亡者たちの呻きを幻聴するシーンも唐突すぎ、占領軍人による取調べの場面も寓話としては中途半端だし、極めつけは解剖した米空軍パイロットの生き肝を食べて宴席を楽しむ帝国軍人たちの様を最後の晩餐になぞっても構図と演出意図が乖離していて空回りするだけだ。
はたと思い出すのは山根貞男氏がかつて「海と毒薬」を評して言った「表現の真実」がないという言葉だ。それがなければ感動をもたらしえないと。

それが「麦の穂をゆらす風」には、ある。前言を撤回する。「麦の穂をゆらす風」は社会派の作品ではない。イラク戦争反対の使命感はあったのだろうが、その想いが大きくうねり、愛する者同士が殺し合う悲劇を、アンハッピーエンドを確信をもって描いている。ここまで堂々と、ものづくりに迷い、確信にいたる過程を、自分の弱さをさらけ出せる自信が私にはあるだろうか?