テレビで『ローレライ』を観た。急速潜航時乗員を艦首に急行させたり、艦内で使用する拳銃の選択、軍装の種類まで描き分ける細心さがありながら、大戦末期に天蓋もないドックで陽にあたっている新鋭潜水艦、坊主頭が見当たらないことや回天乗組員の愚行、ヒロインとのお粗末な交流描写のアンバランスさが目立つ。思うにやりたいのは作品世界のようなナチスドイツが開発した新型索敵装置(心臓部は若い女性)を搭載した特殊な潜水艦が、敵駆逐艦隊の包囲網をかいくぐり、三発目の原爆投下を阻止する。これだけの演出をやりたいだけだったのかもしれない。
だから、本作では目的と手段がそもそも転倒しており、上記の如きアンバランスさは問題にならないし、アニメコンテの実写版だと言っても批判として実効性がない。そう、演出は『眼下の敵』の潜水艦艦長のように潜望鏡を覗く際に軍帽を前後逆にかぶりなおしたり、『怪獣総進撃』のムーンライトSY3の搭乗員のように梯子を滑り降りる動作に萌えているのだ。
またここで、そのようなこだわりのみの映画演出は思想的に利用されやすいと言う御仁が出てこよう。しかし、ご安心あれ。彼らは『宇宙戦艦ヤマト』の洗礼を受けている世代。破壊の限りをつくした後、古代進の「戦うべきではなかった」にショックを受けて作劇構成に興味を持ち、「明日のために今日の屈辱に耐えるのだ」と言った沖田艦長が『さらば宇宙戦艦ヤマト』で「おまえの命で戦え」などと言うはずがないと疑義を感じ、統一された人格を備えた登場人物でなければならないくらいは理解している世代だ。それは同じスタッフがつくった『ふしぎの海のナディア』でN-ノーチラス号の起動描写が宇宙戦艦ヤマトのそれと酷似(てか、全く同じ)していても、『さらば…』からのオマージュが皆無であることからも想像できよう。(思想の深浅や『エヴァンゲリオン』との関係については稿を改める)
ことほどさように、演出的にアンバランスであっても、作品世界を統一している世界観がぶれていなければよしとするのが彼らなのかもしれない。『青春の門』のごとく、戦前なのに茶髪やピアスの穴が頻出したりするのは論外だし、『壬生義士伝』では呼気の白さまでCG描写しながら、皸のない綺麗な爪の手と歯並びの栄養不良や、龕灯もなしに深夜の宿改めに突入する新撰組などは、彼らにとっては考えられないことなのだろう。
さて、上述のようなこだわりと、物語のリアリティとを整合させた娯楽作品を観客諸氏は求めるだろうが、それに応える観察眼とテクニックの蓄積のある作家を育てる努力を業界が怠っていないか、疑問ではある。え?お前がやれって?
だから、本作では目的と手段がそもそも転倒しており、上記の如きアンバランスさは問題にならないし、アニメコンテの実写版だと言っても批判として実効性がない。そう、演出は『眼下の敵』の潜水艦艦長のように潜望鏡を覗く際に軍帽を前後逆にかぶりなおしたり、『怪獣総進撃』のムーンライトSY3の搭乗員のように梯子を滑り降りる動作に萌えているのだ。
またここで、そのようなこだわりのみの映画演出は思想的に利用されやすいと言う御仁が出てこよう。しかし、ご安心あれ。彼らは『宇宙戦艦ヤマト』の洗礼を受けている世代。破壊の限りをつくした後、古代進の「戦うべきではなかった」にショックを受けて作劇構成に興味を持ち、「明日のために今日の屈辱に耐えるのだ」と言った沖田艦長が『さらば宇宙戦艦ヤマト』で「おまえの命で戦え」などと言うはずがないと疑義を感じ、統一された人格を備えた登場人物でなければならないくらいは理解している世代だ。それは同じスタッフがつくった『ふしぎの海のナディア』でN-ノーチラス号の起動描写が宇宙戦艦ヤマトのそれと酷似(てか、全く同じ)していても、『さらば…』からのオマージュが皆無であることからも想像できよう。(思想の深浅や『エヴァンゲリオン』との関係については稿を改める)
ことほどさように、演出的にアンバランスであっても、作品世界を統一している世界観がぶれていなければよしとするのが彼らなのかもしれない。『青春の門』のごとく、戦前なのに茶髪やピアスの穴が頻出したりするのは論外だし、『壬生義士伝』では呼気の白さまでCG描写しながら、皸のない綺麗な爪の手と歯並びの栄養不良や、龕灯もなしに深夜の宿改めに突入する新撰組などは、彼らにとっては考えられないことなのだろう。
さて、上述のようなこだわりと、物語のリアリティとを整合させた娯楽作品を観客諸氏は求めるだろうが、それに応える観察眼とテクニックの蓄積のある作家を育てる努力を業界が怠っていないか、疑問ではある。え?お前がやれって?