「墨攻」
なぜ多くの武侠映画が「七人の侍」から肝心な点を学ぼうとしないのかをずっと考えていたが、本作はそれにたいする可能な一つの回答。登場人物一人一人がそれぞれに限界を持った個人として描かれる。スーパーマンは出てこない。
時は紀元前、10万の趙軍に蹴散らされようとしていた梁は非攻・兼愛を説き、城邑防衛戦術に長けた墨家に援護を依頼する。しかしやってきたのは革離という名の墨者一人。彼は様々な戦術を駆使して梁城防衛を指揮する。
戦闘における熱狂と怨嗟、求心力にたいする裏切りと嫉妬、生存のため、権力維持のための老獪さ、そしてコミュニケーション不全が招く虐殺、厭戦と、カン所を押さえた構成はやるなと思わせるし、そらこんな歴史ばっかり繰り返しとったら孫子も孔明も登場するわなあとも思わせる。
難点は衣装がキマリ過ぎてボロなのにあつらえにしか見えないこと(メビウス風で好きですが)、構成力があり、汚物まで動員する描写の説得力があるなら戦闘準備や訓練、知略を具体化する過程をさらに描き込んで盛り上げ、前後編3時間には出来なかったかと思われること(無いものねだりか)。突貫工事であったのか編集段階で決まったのであろう不発に終わらせる伏線が回収できていないこと(存在感まる出しの美男美女でこんなん出来るワケないとか、ラブストーリーは余計やろとは言いません)だが、作品に勢いがあるので気にならない。
ふと思うのが二千年以上前の話でこうなのだから、現在にいたるまでに淘汰されずに残ったDNAで、我々が引き継いだのは革離か梁王かと問われれば、後者が多数派なのは明らか。隣人にいないかって?政治家を除けば某社長とオフクロくらいか。観賞後、観客から最も反感をかうであろう梁王やその取り巻きを全否定することは出来ない。変化に適応した者が生き残ると小泉前総理も言っているのだから。
なぜ多くの武侠映画が「七人の侍」から肝心な点を学ぼうとしないのかをずっと考えていたが、本作はそれにたいする可能な一つの回答。登場人物一人一人がそれぞれに限界を持った個人として描かれる。スーパーマンは出てこない。
時は紀元前、10万の趙軍に蹴散らされようとしていた梁は非攻・兼愛を説き、城邑防衛戦術に長けた墨家に援護を依頼する。しかしやってきたのは革離という名の墨者一人。彼は様々な戦術を駆使して梁城防衛を指揮する。
戦闘における熱狂と怨嗟、求心力にたいする裏切りと嫉妬、生存のため、権力維持のための老獪さ、そしてコミュニケーション不全が招く虐殺、厭戦と、カン所を押さえた構成はやるなと思わせるし、そらこんな歴史ばっかり繰り返しとったら孫子も孔明も登場するわなあとも思わせる。
難点は衣装がキマリ過ぎてボロなのにあつらえにしか見えないこと(メビウス風で好きですが)、構成力があり、汚物まで動員する描写の説得力があるなら戦闘準備や訓練、知略を具体化する過程をさらに描き込んで盛り上げ、前後編3時間には出来なかったかと思われること(無いものねだりか)。突貫工事であったのか編集段階で決まったのであろう不発に終わらせる伏線が回収できていないこと(存在感まる出しの美男美女でこんなん出来るワケないとか、ラブストーリーは余計やろとは言いません)だが、作品に勢いがあるので気にならない。
ふと思うのが二千年以上前の話でこうなのだから、現在にいたるまでに淘汰されずに残ったDNAで、我々が引き継いだのは革離か梁王かと問われれば、後者が多数派なのは明らか。隣人にいないかって?政治家を除けば某社長とオフクロくらいか。観賞後、観客から最も反感をかうであろう梁王やその取り巻きを全否定することは出来ない。変化に適応した者が生き残ると小泉前総理も言っているのだから。