「貴方は誰なの?」
か細い声だった。悲鳴をあげたいのを必死で堪えている。
「ラーン・オートフォール・トリスさ」
騎士は額にかかった髪をかき上げ、翡玉の瞳の中に女を捕らえた。剣を持っていない方の手を伸ばし、女の上あごをそっと押し上げる。それは女の知っていた優しい恋人としてのものであり、この上なく官能的な誘いだった。
唇が重なる。
とろけるような酩酊の内に、死と血の匂い、罪の味がした。甘酸っぱい柘榴の爛熟した味。
女は睫毛を伏せて、すべてを享受した。
涙は既に枯れていた。
「・・・俺の小鳥、この可愛い口ではつぐみきれまい」
無慈悲で、美しい声だった。
そうして、騎士は静かに女を突き放し、剣を一閃させた。
冷たい切っ先がタペストリーの掛かった壁にしばし女を縫い止めた。
時が物憂げにゆっくりと動き出し、女が崩折れると、タペストリーが女の屍に覆いかぶさるように落ちた。
二つの弦月だけがその夜の秘め事を目撃してた。
やがて、騎士が館から出てきた。優雅に、何事も起こってはいないかのようにそぞろ歩く。
来た時と同じ銀木犀の傍で、騎士は再び立ち止まった。青みを増した空気が花の香りに染まっている。彼は近くの枝を手折ろうとして、思いとどまったかのように手を引いた。
捨ててきた故郷の同じ空の下、同じ銀木犀の香る庭に、今もかの人は佇んでいるかもしれない。
―― すべては御身故の野心、御身を今一度この上に抱きたいが故の出立、別れの折の誓いは偽りではない。
だが、これより先、我が歩し道は更に幾多の裏切りとあまたの血に彩られよう・・・俺はそれを恐れも恥じもせぬ。ただ御身の他には――
騎士は透過しがたい、かすかに皮肉な表情を浮かべて、庭に背を向けて歩み去った。
館の方から火の手が上がり、空にも赤い花びらが踊る。
風に煽られて、銀木犀の小さな白い花が散り始めた。