「いつになっても結論のでない会議や相談」
という意味だそうです。
ナポレオン戦争のあとの
ヨーロッパの秩序を決めた
ウィーン会議を評した
「会議は踊る、されど進まず」
に近い故事成語だと思います。
小田原評定とは
小田原城で月2回定期的に開かれていた
北条氏の一族や重臣達による
取締役会のようなものでした。
小田原城とは、
戦国時代北条早雲が打ち立てた
関東の北条氏の本拠地でした。
北条早雲は
元の名は伊勢新九郎と言い、
鎌倉時代の鎌倉幕府の
執権北条氏とは
血縁での関わりは薄く
関東での統治の正統性の主張の為に
改姓したという面が大きく、
区別するためもあり
後北条氏とも言われています。
この会議は
本来は北条氏の結束と拡大に寄与した
良い制度でしたが、
豊臣秀吉率いる征伐軍を迎えて
調略された老臣松田憲秀が
徹底抗戦から一転籠城を主張したりと
もめにもめて、
北条氏の衰退と崩壊を迎える
一因になったと言われています。
小田原征伐の原因は
関白秀吉が命じた
惣無事令という
日本全国の戦国時代を終わらせる命令に
北条氏が違反し、
真田氏の名胡桃城を攻撃したことでした。
史実では
正確には会議がもめたというより
堅城小田原城は守りきれるという
唯一の武器を前面に押し出した
講和狙いの籠城策という
惣無事令違反の結果としては
迷走の結果とも言える
消極策を北条氏の
皆の総意でとったということでした。
松田憲秀は
秀吉方への内応が発覚した後
小田原城内に幽閉されたため、
小田原評定で何かをしたという
訳では有りませんでした。
小田原城は
関東管領上杉謙信の果敢な攻めも
受け付けなかった堅城でしたが、
秀吉には勝てませんでした。
北条氏に有利な条件での
講和すら出来ませんでした。
このことは
北条氏の周りの状況にも原因があります。
上杉謙信には
武田信玄という宿敵がいて、
関東に長居してしまうと
武田信玄がすぐに
上杉領の北信濃や越後、
今の長野県北部や新潟県に
兵を進めて来るため、
あまり長居出来ませんでした。
一方秀吉には
上杉謙信にとっての
武田信玄のような
虎視眈々と攻める機会を窺う宿敵は
当時は居ませんでした。
徳川家康が秀吉にとっての
それに近かったため
北条氏が勝手に期待した可能性は
有りましたけれど。
北条氏にとっては
残念なことに
徳川家康は豊臣秀吉を
裏切りませんでした。
秀吉は小田原城以外の
関東地方を平定しつつ、
堅城小田原城をゆっくりと
城攻めすることが出来たため、
小田原城内の北条氏は
降伏するしか有りませんでした。
「どんなにわるい結果に終わったことでも
それが始められたそもそもの動機は
善意によるものであった」
とはカエサルの名言だそうですが、
時代や環境の変化は
良いとされたことから
良くない結果を招くことがあります。
もしかすると、
ある時点までは良くないとされたことから
時に良い結果を導くことも
あるのかもしれません。