まだまだ残暑は続くよ!と思っていたら、すっかり涼しくなってしまってちょいと寂しい夏の終わり…。


小学生の頃は永遠と続くかと思われた夏休み。
あまりに長く、あまりにヒマすぎて、時に早く学校が始まってほしいと思っていた夏休み。



大人になると、ヘタをすると一日、社内に閉じこもっての作業もあって、何だか季節の移り変わりに鈍感になったような気持ちになる。だけど、いつも季節の移り変わりには敏感でいたい。



流れる雲の早さに、
空をあおいだ時の太陽のやさしい日差しに
頬を通り過ぎる、秋色の風に




閑話休題



ある人のエッセイを読んでいて妙に納得したこと。


自分では、あの川のそばの木の木陰で休みたいなぁと思っているのに、周りの人たちから「こっちの川で遊ぼうよ」「あっちの川のそばで遊ぼうよ」と言われるので、不本意ながら、誘われた川の方へ行く。行ってみるとたいして楽しくもなく、気分も良くなく、内心、「やっぱり本当はあの川の木陰で休みたいんだよなぁ…」と思いながらも、周囲に流されて、本当は自分の望んでいない方へ行ってしまう。


そうすると、少しずつ、少しずつ、自分の求める「快」から遠ざかった人生を送ってしまう。


…そんなニュアンスのもの。



自分の人生は今世ではたった一度きりで、その人生という物語の主人公を演じるのは自分だ。
その物語にどんなキャストが登場するか、までは想像できないこともあるけれど、その物語の脚本を書いて、主人公を演じ、テーマソングを決め、エンディングをどんな終わり方にするか決定するのも、自分自身なのだ。


そう、人生という物語の主人公は、誰か他人ではない、まさに私自身なのだ。
物語は映画、と言ってもいいかもしれない。



そう考えたら、自分が心地よく、快適に、笑顔で楽しい人生を送れるよう、何を選択して何を捨てるかは、自分自身の決断にかかっているのだよね。



だから私は人からどんな風に思われても構わないから、自分の大切なもの、大切な思い、大切な人、大切な信念を守るために、ある時は何かを捨てたり、ある時は薄情と思われるようなこともしてきた。


それだけ「覚悟」を持って生きてきた、と言っても過言ではないのです(キッパリ)。


そして、目の前にある閉まった重いドアを「ぎぃぃ~」と自分の手であけて、そのドアの先にある青空を見るために、新しい世界へ飛び出す勇気を持って生きてきた、と思う。


たまに、自分の中の狭い「カゴ」の中から飛び出すこともせず、ドアを開ける勇気も持たず、隣の人が青空を気持ちよさそうに仰いでいるのを見て「いいなぁ。あの人は青空を手に入れて。私は青空を見れないのに…」と羨ましがるのは、ちょっと違うんじゃないかな、と思うのです。


あの広い空を見たかったら、気持ちいい木の木陰で休息することを手に入れたかったら、そのために選択する勇気、ドアをあける勇気、チャレンジする決意、そんなものが必要だってこと。



今日は胸に浮かんだことをツラツラと(笑)




ビールサーバーからプレモル(生)をそそぐ技術を身に付けた41歳の秋だから…(爆)