夏もそろそろ終わりかな。
いつもなら、もっと寂しく、一人取り残されたような気分になるのに、今年はあまりそう感じないな。年、取ったのかな?(笑) 子どもの時に感じた、夏が始まる頃のワクワク感、何かが起きそうな予感、何かが始まるんじゃないか、という期待。太陽にキラキラ反射して光る波の輝き、プールの水面の底でゆらゆら光る水の陰、すべてを焼き尽くしてしまうかのような夏の日差し…それら、夏への憧れ、とも言える思いと高揚感が毎年、徐々に薄くなっていくような気もする。


いつも季節の移り変わりには敏感でいたい。

大好きな「くるり」の曲「ギター」の中に、「感じない若者になりますか?」ってフレーズがある。

土手に座り込む 久しぶりなのに思い出せません
あの栗色の髪の娘とか
帰り道の淀んだ染色工場のマッド感も

春っぽい自分の顔なんかも
自らの季節感 砕け散りました
何かの命綱はずれたら 哀しみの中私はもがき散るでしょう

未来に怯える それは今を生きるよりもずっとずっと
素敵なことだと決めました 縁側でほくそ笑みました

ハローグッバイ繰り返しますか?
感じない若者になりますか?

俺は一人取り残されている?



感じない人にはなりたくないな。
いつも敏感に、繊細に、様々なことをキャッチして、感じて、それを自分なりの言葉で伝えていけたらいいよね、って思う。



ところで、誰かのことをどうしても許せない、とか、自分の価値観という、狭い枠の中で他人を否定する人、他人を許せない人って、結局はその本人の心のある意味「病」的なものなのかな、と思った。
物事や人は、自分の視点からみたある一点からだけでは、とうてい知り得ないことがたくさんある。だからその自分にとって不都合な1点だけをみて徹底的に否定するのは、ある意味、その人の心の狭量さを露呈している、とも言える。

自分の信念を貫くならば、それと対にして、一見、その反対にも見える「しなやかさ」「遊び」「ゆるい部分」が必要じゃないかなぁ…。

自分からの視点だけでなく、「あの可能性」「別の側面からの見方」にも想像を働かせることが出来てこそ、本当の「大人」って気がするよ。ほんとに、まったく。



今宵もLOVE&PEACE!!!