いつだったかのブログにも書いた、「何かに対して疑ったことで、結果的に良かった試しがない」。これって、今日の日記のタイトル「人の気持ちを試すようなことをすると、ロクなことがない」に通じるなぁ、とふと思ったのだ。これまで思いつくだけで、2回ほど、人の気持ちを試すようなことをした。その結果、どちらもひどく後味の悪い思い出になった。相手にも大層、嫌な思いをさせてしまったことだろう…(ゴメンなさい、ありがとう、愛しています、許してくださいbyオポノポノ)


結局、人の行動に、何か邪念や自分の利益やプライドのため、という思いが入ってしまうと、もうその行動自体がそういう「邪念的行動」になってしまうんだろうなぁ。「疑い」も同じなんだと思う。疑ったことで結果的に私の心にプラスに作用したことがなかったのは、そういうことなんだろう。疑うくらいだったら、馬鹿みたいにひたすら「信じる」方がよっぽど精神衛生上、いいな。今だったら何の疑念もなく、「信じる」方を私は選ぶのだけれど。



日々、私たちは生きている上で、色々な決断&判断をして、選択しているわけだけれど、(例えば今日の昼食はソバとカレー、どっちにしようかな、というのも、ある意味ささやかな、かつ大切な決断でもある、笑) それが正しいとか、間違ってる、とかそういうのって本当はないんだろうな。決めたら、腹をくくって覚悟すれば、もう何もそこに疑う必要なんてないんだろうな。




私の好きな映画にパトリス・ルコントの「橋の上の娘」という情熱的な映画がある。主人公の娘は、自殺しようとした橋の上で、ある男に命を救われる。その男とは、ナイフ投げを生業とする旅芸人なんだけど、ふとしたことから二人はともに旅するようになる。ナイフ投げの標的となる娘は、廻るルーレットの上に縛られて、体すれすれに男のナイフをよけるのだけれど。。。


この映画を観ていると、人生ってまるで「ナイフ投げ」のようだと思う。人はいつも、人生の岐路において、決断してナイフを投げている。自分で決断して、自分なりのスピードで、自分なりの角度で、自分なりの正確さで、自分のナイフを。


で、この映画だけど、ラストは意外な展開が待っている。実はあの夜、自殺しようとしたのは娘だけでなく、ナイフ投げの男もまた、同じだったのだ。そしてラスト、男が橋の上から今にも飛び降りようとするシーンで娘が放ったこのセリフ。




「飛び込むのを辞めて、続けるのよ」


「何を?」


「二人でいることを」



thanx!!!