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経典『本物の信仰とは何か』に学ぶ その30

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142ページ

「本物の信仰」をつかみ取り、広げよ

 

私たちに課せられた「責任」についておっしゃっておられます。

この教えを届けるのは、とても難しいが、ふみとどまって、これを少しでも広げる努力を、と。

つまり伝道することについてですね。

 

そして、「自信」についておっしゃられます。

これは👺天狗的自信ではありません

 

当会の霊言で登場する菩薩や如来、天使など、

過去の宗教において、宗祖、開祖とされた存在も、

主エル・カンターレの御前では、

「法を説いていただきたい」と願う存在であること。

つまり「弟子」の一人であって、まったく立場が違うこと。

この意味での、信仰における「自信」ということです。

 

あるいはそういう最高の御存在を

仏宝におしいただいていることへの「自信」です。

 

これ以上の信仰は地球にも宇宙にもない。という

「最高の信仰」であることの「自信」ですね。

 

 

そして、

いよいよ、今、最高の信仰に近づいている段階にある。

とおっしゃいます。

 

 

どうか「本物の信仰」をつかみ取ってください。

そのなかで、「方便の信仰」との違いや差をよく分かっていってください。

144ページ後ろから4行目より

 

 

この御言葉があるということは

あえて重ねて申し上げますが、

いまだ「本物の信仰」ではない。

ということを暗におっしゃっておられるということです。

 

2018年に説かれた御説法ですが、

その当時に、「私の信仰は、まだまだ『本物の信仰』ではない」

という問題意識を持って、

その後、我が信仰を本物にするべく、修行を重ねたかどうか、というと

自信をもって「はい」と答える人はほとんどおられないと思います。

 

個別具体的な修行論については、今後、もっとさまざまに展開をしていくので、それを勉強していただきたい

144ページ3行目

 

この「個別具体的な修行論」に着目して、法を学び修行した方も少数でありましょう。

 

 

 

そして、この御説法の結びの御言葉は以下の通りです。

 

みなさんの活動の中には、この世的なレベル、常識レベルでの活動も多いと思いますし、

それをも「宗教活動」と称していることも数多くあると思います。

その全部を否定できるものではなかろうと考えますが、

 

最終的には、やはり、

「信仰が残らなかったら、すべては虚しい」

 

ということを知っておいていただきたいと思います。

どうか「信仰」の二文字を持って、

この地上を去ってください。

 

 

私たちの活動に、まだまだこの世的なるものが多いことを

暗におっしゃっておられます。

 

伝道活動においても、植福活動においても

この世的な論理でやっていないかどうか

最終的に信仰が残るような活動になっているかどうか

 

そして、自分自身は

信仰心が去年よりも深まったか

先月よりも深まったか

昨日よりも深まっているか

 

これを考え続け、自己を磨いてまいりたいものです。

 

「この世的な論理」でやっているというのは

様々な解釈ができますが、

自我力でやっている。とか

見返りを求めてやっている。

あたりがほとんどでありましょう。

 

いままで「成果が出ていればまあいいじゃん」とか

「目標が達成できていればまあいいじゃないか」

という形で、成果のみに着目し「動機」や「過程」まで

清らかなるものかどうか精査せぬままに推移しておりました。

 

※「成果」の出ない仕事も主の御心にかなわないということも、念のため申し添えておきます。

※経典『地獄の法』には、「目的」「動機」「手段」「過程」「結果」の正しさが問われる。と明記されていますね。268ページ

※つまり成果が出ないというのは、目的か、動機か、手段か、過程か、それらのどこかが間違っているということを示しているということです。

 

 

さて、しかし、

もう「この世的な」そういう活動とは

2023年3月以降、きっぱりと別れを告げるべきです。

これは、タイムリミットがあります。

時間との勝負だということです。

 

 

時間との勝負と申し上げているのは

天変地異や経済危機や戦乱などの要素もそうですが

私たちの『年齢の問題』が大きい。

 

2022年の11月初転法輪祭での御説法「真実を貫く」では

「人生の、あらかたのいろいろな出来事は経験がもう終わったみなさまがたで、”今さら生き方を聴いても、もう手遅れ”といってはよくないけれども、”やや遅れ気味”であって、『来世に持ち越しに入るかな』というあたりなのかと思っています」

というお言葉があったのは御記憶でしょうか?(経典『真実を貫く』p15)

 

ぜひ、読み返してみてください。

なんとも申し訳なく、また恐ろしくも感じるところです。

この後、「だから、『地獄の法』を出しました」という趣旨の御言葉がつづいています。

 

あたりまえですが、信者であっても、地獄に堕ちないわけではありません(救いに来ていただけるために、滞在時間は短くなるようですが)

それは、因果の理法、縁起の理法どおりに、心の波長に合致した霊界に行く。という法則通りになるだけです。

 

 

 

そして、この経典の38ページには恐るべきことにこうあります。

「みなさまがたは、『地獄の法』を読まれて、地獄に堕ちないようにするか、できるだけ”低い所”に堕ちて早く天国に帰ってこられるようにするか、これから対策を練られることになるとは思いますけれども・・・」

 

この緊張感をもって、『地獄の法』は精読するべきです。

 

 

この『本物の信仰』を説かれて5年後の恐るべき着地点として、

経典『地獄の法』から『妖怪にならないための言葉』への流れがあるのだと

私は感じております。

 

以上、経典『本物の信仰』について学んでまいりました。お読みくださってまことにありがとうございました。

(完)

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