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経典『本物の信仰とは何か』に学ぶ その29

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「帰依の心」をお持ちください。

と、主がおっしゃいます。

 

その法は、帰依しないかぎり学ぶことができないものなのです。この世の学校では、まったく教えてくれません。

 

この世の利便性を増すことはできても、宇宙の理法にまでは絶対に届きません。

これは「信仰のみ」によって知ることができるものなのです。

学問は、最後には信仰によって乗りけられなくてはいけないものであるわけです。

 

 

私たちエル・カンターレ系霊団における信仰は

三宝帰依から始まりますが

その帰依については

「カタチ」ではなく

「帰依の心」というふうに

「心」についておっしゃっています。

 

つまり、

三帰誓願式を受けたから「帰依している」ということにはならない。

あるいは「菩提心の言葉・修行の誓い」を日々読誦しているから

帰依しているということにもならない。

(それは一つのよすがではありますが)

 

「帰依の心」を持っているかどうか

その「心」が肝心であります。

 

 

「三帰五戒」という言葉があります(『『沈黙の仏陀』87ページ)

「三宝に帰依して、五戒を授かる。」

この戒を授かることで

本当の修行が始まる。

 

ちなみに戒名とは

仏門に入る人が、

新たに授かる名前のことです。

生まれ変わって修行をするという意味で、

剃髪をすることも多いです。

 

そのくらいの気持ちのケジメをつけて、

この世で授かった名前を捨て

修行僧としての名前を名乗るのが戒名です。

 

三帰誓願の際に

生まれ変わるわけですから、

いったん「死ぬ」ということでもあります。

その死のことを

「帰命」といいます。

 

いったん、御仏に生命を差し出します。

そして、御仏から再び弟子としての生命を与えられます。

 

その生命が、仏の弟子として生きていく

これが帰命であり、帰依であります。

 

 

日常においては

常に意識の上に御仏を掲げ、尊崇し(念仏)

法に依ってすべての判断を行い、自我による判断が出たら反省する。

そして組織としてのサンガのルールに従うことでもまた自我の角をため、無我性を磨きこんでいく。

これが三宝帰依の心であると思います。

 

こうした、厳粛なる姿勢

三宝を心の鏡として

常に自らを律していく姿勢

ある種のストイシズムはとても大切であると思います。

 

そして、もちろんのこと、この「三宝帰依」についても

完成ということはないと思います。

常に自戒し、常に確かめ、自我を修正し続ける

未熟なる自分にも耐え続ける(羼提波羅蜜多)

耐え続けつつ、自分を自分で教育していく。

 

その姿勢、帰依の心があってはじめて

主は、さらに奥深き法を与えてくださることになります。

「宇宙の理法」を教わるわけですから。。。

 

私たちが仮に、宇宙旅行をする。となったら、

それはもちろん命がけになりましょう。

ならば「宇宙の理法」に届くと主が仰せになられる

その法を学ぶのも

まったく同じ覚悟が必要であると思うのです。

 

 

ぜひ、おすすめしたいこと

それは、

毎日の祈りの際、御本尊に合掌拝礼をすると思いますが

その時に、「帰命」をすることです。

頭を垂れるとき、死ぬ。つもりになることです。

 

つづく

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