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経典『本物の信仰とは何か』に学ぶ その24
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神々が帰依した仏陀と、イエスやムハンマドとの立場の違い
まず、仏教が無神論だという間違った解釈について述べられます。
「梵天勧請」~つまり神々が仏陀に「教えを説いてください」とお願いする話、がある以上
「神はいない」とする無神論は、
これは明確に間違いである。と断じられたのちに
神々と仏陀の「立場の違い」について述べられていますね。
「神々が、仏陀に帰依している」ということ。
仏陀が上で
神々は下なる位置づけであること。
これが大悟直後~初転法輪直前の
「梵天勧請」として明確に記されている。
これは、
キリスト教のイエス・キリストや
イスラム教のムハンマドとも
立場が明確に違う。わけです。
なぜ違うのでしょう
それは
釈尊が
エル・カンターレの魂の御兄弟であられる
がゆえに違うわけですね。
そして、その釈尊生誕の地である
ネパール~インドは
釈尊御生誕によって、
地球の霊界の中心という
位置づけが決定したと説かれたことがあります。
すなわち、シャンバラです。
映画『ドラゴン・ハート』で
学ばせていただいたばかりのところですね♪
この節にて、私が考えますのは・・・
・仏教が唯物論ではない。という一刀両断について
これは、私たちであれば当たり前のように感じることではありますが、いまだに仏教を専門で教えたり学んだりしている方々でも唯物論的に解釈してしまうという落とし穴に入り込んでいる人がほとんどです。以前にもお伝えしましたが、私が通っていた当時の駒澤大学の仏教学部の教授陣は、全員が「あの世がない」という解釈をとっておりました。そうした教授陣に教わって、家業としての住職を継ぐ人もまたあの世の存在を確信できないままに仕事をしている状況です。
実は、『太陽の法』の第1章の(注2)には、釈尊があの世の存在を肯定していた事実、論拠を、仏典に則して記載されています。これを少し覚えておくだけでも、そこらへんのお坊さんなぞは太刀打ちできないくらいの説得力を持つことができます(笑)下記に抜粋してみます。
(注2)釈迦が、実在世界の存在を肯定していた事実は、梵天勧請や悪魔との対話(阿含経)、施論・戒論・生天論(功徳を積んで天国に生まれ変わるとする説)のいわゆる次第説法、直説とはいいかねるが、原始仏教に既に姿を表している十二因縁における三世両重因果の考え、涅槃論、空、降兜率天説話、霊界での実母マーヤー夫人への説法、直弟子たちが未来世で仏となるとする授記(法華経)などに明確に示されている。無我説を唯物論的に強引に解釈する、堕地獄仏教学者の説は、一蹴すべきである。(『太陽の法』67ページ)
・釈尊の説かれた仏教の特異性について
キリスト教やイスラム教は、主エル・カンターレからすれば、「弟子がつくった宗教」にあたるわけです。だから、「神はこうおっしゃっている」という形で教義が組まれて、それが経典化されて、厳格に護っていく。という形になってしまう。これがいわゆる異端審問とか、戦争の火種になっていくわけですね。しかし仏教は、主の魂の御兄弟であられる釈尊が、本仏そのものの霊流を引き込みつつ説かれているので、とてもふくらみがある立体的な法を遺されている。八万四千の法であり、中道論ですね。
・幸福の科学が未来に遺すもの
これは、おそらくは釈尊の教えをはるかにこえ、全宇宙人類を導く要素をはらむ「宇宙の法」であり、「美の法門」によって、地球の歴史4億年をかけての「真・善・美」の法門が完成されるということであり、それは太陽系の使命である「知」と「美」の方向性が、法として顕わされ遺されていくということであると思います。もちろん、ニュー・シャンバラなるものも形成されていくのではないでしょうか。
つづく