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経典『本物の信仰とは何か』に学ぶ その19
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引き続き、経典『本物の信仰とは何か』のメールセミナーをお送りいたします。ご参考になれば幸いです。
111ページ 五人の修行仲間に初めての教えを説く
釈尊は、最初、以前に師事していた2人の仙人を初転法輪の相手に考えられた。
ということが書いてあります。
悟りのレベル的に理解できるのではないか、というお気持ちがあったということですね。
ここでも「弟子のレベルを見て、法が説けるかどうかを判断されている」ことが判ります。
かつて師とした2人への「恩義」を大切にされて、最初の御説法の相手に選ばれようとした、そういう暖かいお気持ちもあったのだろうと拝察いたします。
しかし、天眼で視て、すでに2人が帰天していることを知る。とありますが、
これは仏典では、わずか数日前(7日前と1日前)に帰天していることになっているそうです。
惜しいですね~
そこで、以前一緒に修行していた5人の仲間を最初の弟子にするべく、
鹿野苑に向かわれます。
仏典では、その途中で「弟子になり損ねた修行者」の話がのっています。
苦行をしている人ですが、ウパカという名前です。
ウパカは釈尊に質問します
「あなたの立ち姿も、顔も清らかであるが、あなたは誰を師として、誰の教えを学んでいるのですか?」
釈尊はお答えになられて曰く
「私は、自分で悟りを開いたので、師はいない。また私に等しいものもいない。私は佛陀である」
そしてウパカは
「あるいはそうかもしれぬ」といって、首をふりふり別の道に行ってしまった。
と、こう書いてあります。惜しいですね~
せっかく弟子の第1号になるチャンスだったのに!!!
この説話は、「縁なき衆生は度し難い」の典型的なお話しであるとされています。
つまり、既存の修行スタイルの考え方から抜け出せず、無師独悟という仏陀の境地が理解できなかった。ということです。
形にこだわり、中身を見失う。これが私たち衆生の愚かさであります。
それと対象的なのは、5人の修行者たちです。
この5人は、以前、釈尊がミルク粥の供養を受けられたことに反発して
苦行にこだわったため、袂を分かった修行仲間たちです。
(仲間とされていますが、一説には、シッダールタ太子の出家の際に護衛のために同行した5人のクシャトリア(武士)だという説もあります)
彼らは、最初は釈尊を無視しようとしていたにも関わらず
釈尊が近づいてくると、
言葉を出すことなく、五体投地をして帰依をしてしまいます。
なぜかというと、彼らが「霊視が多少利いていた」
「仏陀の周りには、すごい、黄金色の光が溢れていました。」
とおっしゃっています。
お姿を見ただけで、
仏陀が口を開くまでもなく
つまり、理屈ではなく
その偉大さを感じ取れた。
これが、直前のウパカさんと、
この5人の違いですね。
今回のこのメールは、私、渡辺照宏先生が御生前に書かれた『新釈尊伝』を参考に書いておりますが、この書籍には、そのあと5人は、釈尊の説法を聴いてだんだんと悟ってはいくようすが書かれています。しかし、それでも、はじめのうちは信用しようとはしなかった(『新釈尊伝』215ページ)と書いてあります。感性的・悟性的に、直感で「この人は偉大な悟りを得た!」と思ったとしても、その教えを知性的・理性的に学び得ていく過程で、いままでとは違う考え方を完全に受け容れる(特に苦楽の中道と思われます)までには、迷いが生じるという、ここもまた、私たち凡夫の姿をよく表していると思います。直感だけだと不安定なわけですよね。
補足として。渡辺照宏先生については、経典『仏教学から観た「幸福の科学」分析』にて、地獄に堕ちた中村元と対比する形で、霊言が収録されています。非常に含蓄の深い霊言です。ぜひ再読ください。
つづく。