★☆★☆★☆★

経典『本物の信仰とは何か』に学ぶ その20

☆★☆★☆★☆★

 

116ページ 断食修行をやめ、ミルク粥の布施を受けた仏陀

 

初転法輪の声聞となった5人。

なぜ、そもそも袂を分かつことになったのかという理由を述べられています。

これは「村娘のスジャータからミルク粥のお布施を受けた」ことを「堕落した」

と見たから。が理由です。

 

この説話は有名ですが、実は、仏典には、裏話が掲載されています♪

『新釈尊伝』渡辺照宏著作152ページより

「ボサツ(釈尊)の心を知った神々はただちにボサツの前に現れて、神通力によって栄養を補給しようと申し出ますが、ボサツはそれを断ります。そういうことにすると、外見は断食を続けているように見えるので、世間を欺くことになるからです。むしろ、世間なみの食事を法の如く受けることに決めます。カウンディニヤ(コンダンニャとも)をはじめとする五人の修行者たちはこのことを聞くと失望しました。『あれだけの苦行をしながら最高の悟りに達しなかったものが、また世間並みの食事をするようになったら、どうして目的が達せられようか」こう言って五人はボサツと別れてベナレスの郊外ムリガダーヴァ(鹿野苑)に移り、そこで自分たちだけで修行を続けることになりました。ボサツが修行をしていたウルヴィルヴァーの村は、マガタ国の将軍の一人の領地でした。この人には十人の娘がいて、みな信仰が厚く、この附近に集まる修行者たちに食べものなどを供養することを楽しみにしていました。ボサツに仕える五人の修行者たちに麦や麻などをいつも提供していたのもこの娘たちでした。中でも末娘のスジャータ(善生)はいつも供養に心をくばっていました。」

 

苦楽の中道を歩もうとする釈尊に、ほんとうは天上界が「栄養補給します」と言ってきていた、しかし、釈尊はそれをお断りになられる。というところは、非常に含蓄のあるお話しだと思います。平たく申し上げれば「そんな(世間の人がまねできない)ずるっこいことはしないよ」ということでしょう。

 

このように、修行スタイルの段階から、衆生に対して範を示されようとなされたというのは、現在の、「鏡川隆二シリーズ」や「平凡からの出発」で示されようとしたものと軌を一にするのではないでしょうか。

 

「今後救済すべき衆生の利益を考え、また一方では過去のもろもろの佛陀の先例にかんがみ、まず断食をやめて食物をとることにきめました」

という記載もあります。

 

偉大なる悟りの果実のみならず、それに到る道程もまた、衆生へ布施されておられる。そのお姿を、深く味わいたいものです。

 

つづく。

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 幸福の科学へ
にほんブログ村