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経典『本物の信仰とは何か』に学ぶ その22

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122ページ 「阿羅漢」ー第一段階の悟りへ

 

結論は125ページあたりの御言葉になりましょう。

「この世に生きながら、肉体的なものから離れ、霊体を主人公として自分自身の人生を見つめ直し、自分の修行にとって、あるいは自分の悟りにとって無駄なものを削ぎ落とし、バサッと捨てていくことができる心境になる」ということが、仏教的に言うと、悟りの最初の段階である、阿羅漢の状態になるレベルなのです。

 

とあります。そして

 

そのレベルになるころには、神秘的なものを視たり、神仏の光を視たりするなど、いろいろな霊的現象が起きてきます。

ただ、それは「神秘現象の始まり」ではあっても、実は、まだ「最終の悟り」ではないのです。

霊的な人生観へとクルッと心を変えたときには、そういう現象は数多く起きてきますが、

それは”初歩のレベル”であり、仏陀が本当に説きたかったのは、そういうことではないのです。

 

とあります。ここもとても大切なところですね。もちろんのこと、釈尊の時代だけでなく、今世の主の下生時にも同じことがいえます。

 

当会の信者を長くやっていれば、1度ならず、さまざまな霊的な体験をいたしますが、それで、ゆめゆめ慢心してはならないことを、主は何度も何度もおっしゃっています。

それは、端的に申し上げるならば、霊的なことが好きで、地に足がつかなくなってしまう信者が多いがゆえの警告であります。

 

霊的になった後は、悪霊・悪魔・生霊、そして妖怪との影響を払いつづけ、いわゆる白刃の上を歩むがごとき人生が続きますが、それがどれほどの信仰の力を必要とし、理性・知性の力を必要とするか、わからないままに、甘い気持ちで霊現象を面白がり、ありがたがってしまう・・・あるいは、いかにも「わかっているふりをする言動」をする、さらにはそういうことが分る人をあがめたがる。など、こうした例は枚挙にいとまがありません。

(私の拙い経験において、霊道が開いている幹部の方々に接するにつけても、その方々が、ほんとうに「普通」にされていて、たとえ霊的なものを感じることがあっても、それを口にしたりひけらかすことは、まず、なかったことを申し添えたいと思います。その怖さを御存じだからです。)

 

そして、ほんとうに、それは「初歩のレベル」であり、壮大なる主エル・カンターレの法体系の入り口に過ぎないというのは、その後に続く偉大なる法の体系を学ぶことによってやっとわかってまいります。

次々と法が説かれるにつれて、特に2020年以降の美の法門、宇宙の法門が開かれるにつれて、私たちも、ようやく、主が何をおっしゃっていたのかを、おぼろげながら理解できるようになってきておるわけでございます。

 

謙虚に学びを続けてまいりましょう。今世の人生が許されている間は。。。

 

 

つづく

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