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経典『本物の信仰とは何か』に学ぶ その17
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101ページ
「仏陀の悟り」とは何か
三度の梵天勧請を受け、悟りを伝えることを決意した釈尊
ここも重要論点です。
102ページ「自分が悟り得た内容はあまりにも難しく高遠であったため、
始めは『これを説いても分かる人はいないのではないか』と思ったのです」
しかし、梵天があらわれます。
梵天というのは高級諸神霊ですね。
「どうぞ、迷える衆生のために、その尊い法をお説きください」
と、梵天が3回たのんで下さったので、
ようやく釈尊は
法を説くことを承諾されます。
高級霊であっても説けない法であるからこそ
梵天は釈尊にたのんでいるわけでありましょう。
しかし
釈尊はすぐに「わかった」
とはおっしゃらない。
「衆生に理解させるのは難しかろう」と思われる。
これは、そうかもしれません。
そのあと、釈尊は初転法輪によって
苦楽の中道と、四諦・八正道を説かれます
(参考『『悟りの挑戦』(上)p32)
すでに仏法が説かれ
2600年たった今にいたっても、
この「苦楽の中道」さえ、
いまだに理解できない方が多くおられますし
「四諦・八正道」にいたっては、
ほんとうにその意味を悟り
日々に八正道を行っている弟子は
わずかばかりかと思われます。
その衆生へ法を説くことの孤独感。
これはまさに「遥かなる異邦人」の御心境でありましょう。
しかし、梵天の3度の勧請によって
「初転法輪」がなされたわけです。
それがあってこそ仏教は人類史に遺されることとなりました。
まことにありがたいことです。
さて前置きが長くなってしまいましたが
ここから学ぶべきところは
「法は求めてこそ、説かれるのだ」
ということです。
未だ3割しか説かれていない
『エル・カンターレの法』
あるいは
『宇宙の法』
これを、私たち弟子が「説いてください」と
求めるかいなか、
それとも
「もう、わからないので、いいです」
と、なってしまうのか
もっと申し上げれば
「御復活して、法をお説きいただきたい」
と切に祈るか
「まあ、復活されるのならば、どうぞ」
という、無礼なる態度でいるか
私たちが、
どちらの態度を
とるべきなのかについては、
ここに説かれている『梵天勧請』の文脈からも
深く考えるべきだと思われます。
本書の77ページの涅槃にまつわるエピソードと合わせて
『復活の祈り』の大切な拠となっております。
つづく