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経典『本物の信仰とは何か』に学ぶ その2
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第1章 1 幸福の科学における「三宝帰依」の精神
10ページ
冒頭に「信仰の形態」という言葉があります。
意識するべき言葉だと思います。
「三宝帰依」というのは「信仰の形態」
「信仰のかたち」であるということです。
意外と、これが、日本人にとって、あるいは欧米人にとっても、
わかりにくい所かもしれません。
わかっているようで、わかっていない。
知識として知ってるけれども、なかなか腑に落ちない。
それが「三宝帰依」だと思います。
主エル・カンターレの教団
「幸福の科学」においては
「三宝帰依」は
1994年から始まった「信仰の形態」
であることが書かれています。
ふつうの日本人は、
信仰というと
神社仏閣、あるいは墓前で手を合わせること。
たまーに、坊さんの説教をきかされること。
という「かたち」でイメージしています。
あるいは念仏をとなえたりする。「かたち」。
非常に平坦なものとなってしまっていて、
仏教の看板を掲げているにもかかわらず
三宝帰依についてはほとんど触れられませんし
それに基づく教化などは、もちろんなされません。
日本神道的に堕落した、骨抜きの仏教となってしまっています。
(※詳しくは『「妖怪にならないための言葉」余話』などをお読みください)
これと、エル・カンターレ教団とでは、
「かたち」が違うんですよ。
ということですね。
これをしっかりと意識できているかどうかは、重要だと思います。
片や
キリスト教やイスラム教も
一神教ですから、基本的には「神を信じる」が中心で
キリスト教ならば、神とキリストと聖霊を信じる(三位一体)、あるいは聖書の内容を信じる。
イスラム教なら、コーランとハディースの内容を信じる(教義と信仰生活の規定)
となります。
対して
「仏」と「法」と、それに「僧団」をも(!)含めて
「3つの宝」であるとし、
それへの帰依を説くのが仏教です。
(※僧団をもが組み込まれているところがミソだと思います。これによってさまざまな葛藤も、衝突も、議論も起こって、修行がすすみます💦これについては後述)
エル・カンターレ教団たる仏教の信仰形態は
「他にはない」ものであるわけです。
そして、主の下生された時代にあって、
基本書である『太陽の法』さえも
書き換えていかれた。という歴史があったことは
仏・法・僧の「法」が「進化する」ということ。
「仏によって、法が新しくされていく、進化されていく」
という事象が起こることを意味しています。
つまり、仏陀在世中は、常に進化し続ける。
つまり三宝帰依は、変化しつづける信仰形態であるということです。
イノベーションし続けることが可能な形になっているんですね。
もっと極端に言えば、
新たな法が説かれるたびに、三宝帰依の中身は、新しくなり、更新されてきました。
だから、もし新しい法が説かれたら、なにをさておき、それを学ばないと
「ズレた」信仰になってしまいます。
ずれているにも関わらず、それに気が付かないままに生きる。
ゆでがえるのように、気が付けなくなる。
そのスキを、悪魔や妖怪が必ずねらってきます。
そのような緊張感をもって、常に、新たにする必要があるのが
三宝帰依という信仰形態であります。
その意味で、非常に高度な信仰形態であることがわかります。
現に、私が精舎でお仕えしておりました
館長、幹部クラスの方々は
新しい法が説かれると、今やっている聖務の仕事を「即座に」停止されて
まずはさておき、その御説法を学ばれておられました。
その法を学ばないと、聖務において判断を間違えるからです。
こうした信仰形態は、
固定された聖書一冊だけ。その枠をはみだすと破門される
というような、マルバツの教条主義とも異なっていることは明らかですね。
このあたり、
三宝帰依をしている。という自負があられる方でも
過去世の傾向にひっぱられて、でしょうか・・・
いま述べたような教条主義や
上に述べたような日本神道的な
手を合わせるだけという「かたち」から
抜け出せないままの方は、ものすごく多くおられます。
それだけ奥深いのが三宝帰依であることを
意識していきたいなぁと思います。
そして12ページには
「いずれまた、どこかで『エル・カンターレの法』をまとめなければいけないときが来るだろうとは思っています」
とあります。
つまり、エル・カンターレの法は、まだまとめておられていない。
端々には説かれている箇所があったりして
ちりばめてあるように思われますけれども、
体系的には、まとめて説かれてはいない。
ということですね。
これについては、本経典139ページにも改めて説かれています。合わせて深めてみることをおすすめします。
さらに申し添えるならば、
2020年を超えてからは特に「弟子がついてこれていない」ことへ何度も警告されていました。
そして「未だ7割を超える部分が、説かれていない。」というお言葉もありました。
だから、私たち全員、
まだまだエル・カンターレの法は
「わかっていない」し、「知らされてもいない」のです。
にもかかわらず
この段階で「もう十分わかっています」と、できあがったり、
「もうこれ以上は無理です」とあきらめたりするのは、
ほんとうにもったいない。
もったいないというよりも、
「声聞」という、未来の人類に対する責任ある仕事を、
完全放棄してしまうことになってしまいます。
だから「エル・カンターレの法が説けない。」とおっしゃっている。
そうすると、人類の未来は限られたものとなっていく。
そのことへの警鐘は、もう何年も鳴らされ続けているのです。
とてもとても恐ろしいことだと思います。
つづく。