「祈りについて考える」その1

 

これから数回にわたって、この「祈りについて考える」をテーマに書かせていただきたいなと思っております。 少しなりとも、ご参考になれば幸いです。多くの支部・精舎にて、主を信じ切る信仰者が、礼拝室から溢れかえる状態となって美しき祈りを捧げる日がくることを念じつつ、書かせていただきます。


祈ることは、見返りを求めない行為。 

 

祈ることは、ひたすらに、主への愛を捧げる行為。

 

祈ることは、この世の限界から脱する、霊的覚醒。

 

主の御復活は、実は、己自身の復活でもあるのだという認識の深まり。

  

 

そして 生まれ育った環境も、性格も、気質も、波動も、なにもかもが、異なっている私たちであっても 等しく主に創られたる魂として、主への愛を捧げ、その祈りによって一つとなっていく、唯一の、そして聖なる路、限りなく美しい行為。それが祈りだと思っています。

  

正直に申し上げれば、宗教的環境に生まれた私は、主が説かれる「祈り」に対する法が、腑におちるまで、祈りに対しての一定の“先入観”をもっておりました。それは、「祈りというのは、本来、誰に見せるものでもなく、独り静かに、主と一対一にて向かい合い、裸心にて奉るものである。」という、そういう感覚です。

 

 

しかし、御法話『揺らぎについて』にて、「集団でみんなが真剣に祈る」ことの意義を説かれているように、集団での祈りについても、主は重要視されています。『青銅の法』でも「空間を磨く」という論点があったかと思います。

  

 

実は、この「揺らぎについて」で説かれている様々な論点にて、新たな、というよりも、私たちが見過ごしてきた、というにふさわしい、祈りに関しての、霊的なる、修行の方向性を示してくださっていると感じています。

  

 

同御法話で、主は「みなさんは、まだ『祈りの力』について本当に解明ができていません。」とおっしゃられていますが、

 

私自身も、この御言葉を前にして、祈りについて、認識が低く、取り組みが浅かったことを目の当たりにし、そのことにショックを受けました。

 

 

その大きなきっかけとなったのが、やはり、なんといっても2023年3月、「復活の祈り」が始まった時です。

 

このときに、まず私が深く感じ、恥じいったことが、この、自分自身の祈りに対する認識の低さであります。

 

祈りが形だけのものであったこと

 

ただ経文を音声として発することをもって、祈りとしていたこと

 

自分の波動で祈り、主の波動に合わせようとしていなかったこと

 

時空を超えたる、はるかなる御存在であられる主に対しての祈りではなく、この世的な礼拝室空間の感覚でしか祈れていなかったこと

 

すぐに集中力が切れ、経文を読み上げる己の声だけが、ただ空しく虚空を切っていたこと

 

このことへの気づきと反省でした。

 

己の幸・不幸に関することを祈る以上の真剣さで、主の御復活を祈り、主への愛を捧げる祈りを真剣に祈れるか否か、これを日々、自分に問いかけ、反省を繰り返す日々となり、それは未だに続いております。

 

おそらくは、今後、地上人生が許される限り、あるいは、実在界に還ったのちも、この祈りについて、探究を重ね続けていくのだろうと思っています。 

 

十大原理シリーズの最終法門である『祈りの原理』を学び直すにつけても、生命を賭して祈ることや、祈りの時に死を意識すること、美と善と愛がある祈りであること、これらの法が、すでに説かれていたにも関わらず、正面から取り組もうとしてこなかったこと。

  

この気づきが、私にとって、「復活の祈り」の最初の気づきでありました。平たく言えば、「しまった!全く、わかっていなかった!」ということであります。

 

つづく