「祈りについて考える」その3
前回までで、「祈り」ということに対しての認識の薄さ、取り組みの甘さへの反省と、その反動で、自我力の祈りになってしまったことへの気づきについて書きました。時期としては2023年の4月~5月頃までの出来事です。これによって、このころは、「無我なる祈り」を追い求めなければならない。という問題意識が芽生えたわけです。
次に、全国的に出てきた問題がありました。それは「祈ってばかりだと活動ができないじゃないか」という議論でした。特に13時からの祈りは、もう省略しても構わないのではないかという
議論がおこったのです。
復活の祈りの時間に、全部で40分間ほど必要であることについても、もっと短くてよいのではないかという議論が起きました。1日3回、各40分間を、全身全霊で祈るわけですから、正直、それだけでもヘロヘロになります。
要するに、祈りにエネルギーを割いてばかりおらずに、もっと伝道するべきだ。という考えですね。一見、もっともであるように思いがちです。
しかし、この考え方にも一つの陥穽、落とし穴があったのです。
それは、「主が御復活されようがされまいが関係なく、活動はこちらの人間側でやっていきますよ。」という、人間主体の考え方へと、たやすく陥ってしまうということです。霊性の低さも関係しています。
もっと言えば「主の御存在は、教団には必要ありません」という、妖怪とまったく同じ主張が、実は潜んでいた。ということであったのです。
いっけん、責任感や自主性を帯びているかのように見える考え方の中にも、実は自我力や天狗性、信仰の欠如が潜んでいた。ということですね。主の御存在なくして教団も、活動もありえない。主の御存在あってこそすべてがある。
この考え方が薄く、主が地上におられようがおられまいが今まで通りに活動をやっていくのだ。
という、人間主体の考え方、になってしまうということです。
実はこの奥には『思考停止』も潜んでいます。
「なぜ、主は地上を離れられたのか」という、私たちがつきつけられたこの大きな公案に対して、考え、考え、考え続け、反省を重ね祈りを重ねることで、自己変革や、活動文化のイノベーションを成し遂げ続ける。自分のものの見方や考え方、生き方そのものを「変化させる」ことを投げ出して、放棄してしまう。ということですね。
これが「思考停止」です。
てっとりばやく考えることを放棄して、いままで通りやっていこうや。という、安易な考えになってしまう。こういう事態が発生しました。時期としては2023年の4月~5月頃の出来事だったと記憶しております。
それ以来、それを戒めるべく、総合本部の、つまり僧団全体の方針として「復活の祈り」こそ、すべての活動の中心。という言葉が打ち出されています。
「復活の祈り」の優先順位は、すべての活動より最も高い。ということです。そして、それは今も続いております。今後もそれは続くことでしょう。
過去のイノベーションと同様。これが理解できず、教団から離れてしまう方も出てきています。
例えば、GLA的な裏的信仰との決別し、仏教的思想を基盤として、信仰と伝道の教団に生まれ変わった時のイノベーションや、前妻と訣別し、御巡錫や幸福実現党の政党活動を始められた時の
救世主的なる活動へのイノベーション。
このようなイノベーションの時と同様に、それが理解できない人が一定の割合で出てしまうわけです。除名された熊本の某氏のようになってしまう人もいますね。
これは霊言説法『信仰薄き者たちへ』等で予言された通りであります。
過去においても、このように、たいへんな痛みを伴いながら、イノベーションし続けてきたのが幸福の科学の歴史ですが、なにゆえに、それをしなければならないかというと、正しいエル・カンターレ信仰を未来に伝えるため。です。人間中心の信仰、人間中心の教団文化ではなく、ほんとうのエル・カンターレ教団として教団の基盤をつくり、それを未来に遺すためです。
未来の教団のため、未来を拓くため、未来に、正しいエル・カンターレ信仰を遺していくため、
そのための痛みをともなう”激しい”イノベーションの渦中に、私たちはおかれているのだと思います。
つづく