祈りについて考える その8
前回は、法帰依について少し触れました。平たく言えば
「法を学んで、法に合わせて、自分を変えようと決意している」か
「自分は変わろうとせずに、その自分が理解できる範囲内で、学ぼうとしている」か
という、その違いです。微妙な違いですが、大違いです。
後者の方でよしとしていると「やがて、信者でいることさえできなくなる。」と、主は、90年代から、ハッキリと仰っています。
御法話『情熱からの出発』
(経典『大川隆法初期重要講演集③『情熱からの出発』234ページ)
自己変革ー自分を変えていこうと思うからこそ、
会員としての資格を維持することができるのです。
変えようとしない人には、
維持すらできないのです。
「そのままでよい」と思っている人は、
必ず会員でいることはできなくなってくるのです。
これは、『妖怪にならないための言葉』の最初の最初にでてくる
①くれぐれも、自分が世界の中心にいると思うな。ともほとんど同義です。
自分を中心に考えるからこそ、仏がなんとおっしゃっているかは二の次。自分が何をしたいかが優先してしまいます。
自分を中心に考えるからこそ、主がどのように生きよとおっしゃっているかは一応聞くだけ。
自分の日常生活を変えようとはしない。
こういう部分は、もちろん私を含めて万人が持っております。
これを戒めること、反省すること、を、主は求められているわけですね。
だから、法帰依だけではなく、仏帰依、法帰依、僧帰依の三宝帰依の誓いは毎日、強く、誓うべき内容です。毎日誓わないと、昨日誓ったからといって今日できているわけではありません。
というよりも「すぐにできなくなる」んです。
「一日怠れば三日遅れる。三日怠れば十日遅れる」
というお言葉もありました。(経典『信仰と情熱』p187)
その通りになることを私も何度も実感しました。
そして、三宝帰依は、毎日、反省することでもあります。
「三宝帰依の下に生きることができただろうか、それに反する心が出て来なかっただろうか。少しなりとも自分を向上できただろうか。」
こうしたことをいつもいつも自分に「つきつけながら」生きるのが、あるいは守護・指導霊に「つきつけられながら」生きるのが、三宝帰依者のあるべき修行の姿であるわけですね。非常に厳しい修行です。
しかも、この修行は、滝に打たれたり断食したり山を歩いたりするような、みせびらかす部分は一つもない修行です。だれも気づいてくれませんし、応援もしてくれません(笑)
ただ、主がご覧になられておられます。
これを信じ、真面目に行うことが、ほんとうの信者の姿であります。
なかなか難しい。その通りです。だからこそ、向上の余地があります。
あきらめたらそれで終了です。地獄への道は善意で舗装されています。楽な道へ、楽な道へと、誘ってくるものが妖怪悪魔です。せっかくこの世に生かされているのですから、魂修行にチャレンジしなくては時間の無駄になってしまいます。人生の無駄遣いになってしまいますね。
ついでですから少しだけ。この妖怪にならないための言葉①くれぐれも、自分が世界の中心にいると思うな。この御言葉を深く考えていくためには
「では、「自分」ではないものとは何だろうか?いったい何を、世界の中心におくべきなのだろうか?」というふうに考えることをおすすめしています。
この①の御言葉と向かい合って、自分以外の、何を、世界の中心とするべきなのだろう?そして、ほんとうに、それを、世界の中心として生きていくには、どうしたらいいのだろう?という、問いかけを、自分自身にしていくことが肝要です。
こうしたことを、考え、考え、考え続けるのが思慧であり、幸福の科学の法の学び方なのですから。そして、それを日々行っていくからこそ、祈りの波動は違ってくるのだと思います。
祈りの経文の言葉に対しても、同じように「心で受け止める」ことで、言魂の波動が強く出てくるからです。
つづく