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その3ー経典「『地獄に落ちないための言葉』余話」に学ぶ

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17ページからは

2 血の池地獄や畜生道に

堕ちないための考え方とは

”本能の自由”の領域を広げようとしている「リベラル」の行きつく先は「血の池地獄」と「畜生道」

とあります。

 

「メジャーなので」とおっしゃっています。

メジャーなので、箴言集の冒頭に置かれており

法の分量も多くしてある。

ということでしょう。

 

浅い地獄だけれども、行く人が多い。

 

「人間と動物を分けるものは何か」という自覚がない人が多い。

 

とおっしゃっています。

 

考えますに、人間の三大欲望「食欲・性欲・睡眠欲」のうち

現代社会では飢えることが少なく、

食欲については基本的に満たされる。

 

睡眠欲も、寝ることを許されずに

強制労働されるみたいなことも

ないと思います。

 

しかし唯一、

性欲については、

実際上、飢餓感を感じる人が多く存在する

と思います。

芸能人や政治家などの

社会的な名誉欲が満たされている人でも

不倫や色情関連のスキャンダルや、

あるいはハニートラップにひっかかる

 

これに対しては

本来ならば、

「羞恥心」というものを

人間は与えられていて

それで抑制していくようになっている。

と主はおっしゃったことが

あるかと思いますし、

 

あるいは

この経典にて述べられているように

「高貴なる義務

(ノーブレス・オブリージ)」へと昇華する。

こうあるべきなのですが、

 

主が述べられるように

昨今は「リベラル」という考え方がでてきて

これが問題になっている。

リベラル、とは

「自由主義」という意味になるようです。

 

 

 

 

しかしこの自由というのは、

「この世的な価値観」での

”自由”と堕しているので、

動物の本能の自由を

肯定するような考え方へと

劣化してしまっている。

 

平たく言えば

🌟「肉体煩悩からの自由」「魂としての自由」を説く

🌟仏教のような考え方ではなく

 

×「煩悩実現の自由」「肉体の自由」を説く

×「悪魔の自由論」になっている

ということですね。

 

この考え方に毒されている方は

「人間だって動物だ」

というようなことを平気で口にします。

人間の、魂の高貴さ、

仏神に近づいていけるという可能性を

まったく切り捨ててしまう、

鈍くて汚い波動の言葉だと思います。

 

この考え方の延長線上に

高貴な魂を持っている人に対して

その肉体を傷つけたり、拘束したり

辱めようとする思考がでてきます。

イエス・キリストを罪人と並べて

十字架にかける

 

 

 

人間はたしかに

動物とさしてかわらない

肉体舟を使っていますが、

それは修行のための乗り物にしかすぎない。

 

魂こそが人間であり、

それは無限の可能性を秘めているゆえに

その可能性を、

堕落する方向に使ってはならないし

 

限りなく、尊く、美しいものを

求めていかねばならないと思います。

 

 

現在社会は

残念ながらそうなっていない。

悪魔の自由論の方向へ、

リベラルの方向へと

ひっぱられていってしまっている。

 

 

こういう社会となってしまえば、

煩悩の自由と、

煩悩の自由がぶつかりあう

 

これを規制するために

かなり強い

「物理的な」抑止力がいるようになる。

 

この例として

アメリカの銃社会の話をされています。

 

 

 

ここの結論は23ページ

道徳が高ければ、

そんなに、この世的にいっぱい縛らなくても、

自分で判断して納めるのですけれども、

道徳が薄くなってくれば、

この世的に何か過激になってきますね。

 

 

 

わたくしは、このお言葉を前に

主が経典『信仰と情熱』で説かれた「サンガの精神」(第2章)を思い出しました。

これについては次に書かせていただこうと思います。

 

つづく