日々の祈り、
特に【復活の祈り】について、
私なりに、
自戒していることを書いてみます。
なんらかのご参考になれば
幸いです
🌟「復活の祈り」は主に直接つながり、直接にお願い申し上げるべき祈り。という意味で、あらゆる祈願や秘法よりも、重要で上位の霊的営みであると思うこと。
🌟心を鎮め、威儀を正し、最初から最後まで精神を統一し続けて祈ること。
🌟祈りの時には、いったん死んだつもりで、今生最期の祈りだと覚悟をして、命を懸けて祈ろうすること。
私は、例え、祈りの途中で天変地異が起きて地面が揺れ出したとしても、祈りをやめて逃げたりはしないぞ。というふうに覚悟を固めるようにしております。祈りを始めた時点で、自我は死んでいるはずだからです。ただし、だからといって、いかめしい波動になったり、しかめっつらになったりするのは、自我そのもの、本末転倒である。と思います。
🌟語尾をのばさない、抑揚をつけない。経文の御言葉の一つ一つを、大切に、丁寧に、『愛おしみつつ』祈ること。
読経に、へんな節がついているのは、正直申し上げて、精舎館長や、幹部職員の方にも、かなり多く見受けられます。普通の日本語にはない抑揚。エル・カンターレの御名を、「えるぅ~かんた~れ」と発音したり、主への祈りを「主へのぉ~いのりっ」とするのは不遜であると、私は思います。
🌟句読点、読点、余白の区切りについても、経文の一部として大切にして、自分勝手な区切りをつけないよう戒めること。
例えば「主エル・カンターレ」と、「主、エル・カンターレよ」は異なるし、「主よ、主よ、われらが主エル・カンターレよ」を、一息で「しゅよしゅよ・・・」とならないように、きちんと区切ること。エル・カンターレの祈りの「愛 知 反省 発展の」などもしっかりと改行されているので、しっかりと余白を開けて読誦すること、を意識して読誦しています。
🌟自我を出さない。力まない、素直な、子供のような祈りを目指すこと。小さき自分を知ること。
🌟毎回「初めて読誦する」つもりで新鮮な気持ちで祈る。手あかがついたような祈りにしないこと。
🌟祈りの時間は、主とつながる、最高の時間。幸福な時間。暗い調べの祈りにしないこと。内に宿る光を感じること。
🌟唱和する。ということは、周囲と調べを合わせるということ。発信に偏らず、受信能力、共鳴能力を発揮すること。
※以上の事項には、明確な法的裏付けがない、内容も含まれていますが、私が個人的に留意している事項、ということでご理解ください。
※ブログにも書いてほしいとのご要望が一部ありましたので、書かせていただきました。なんらかのご参考になれば幸いです。
【追記】
不遜やもしれませんが、正直に申し上げて、「復活の祈り」の導師をなさっておられる方の祈りが、荒かったり、雑だったり、偉そうに読誦されておられて、とても気になることも多々ございます。(精舎講師や、式典中継での導師の方にも、多々感じます)
例えば、一つの例ですが、経文のはじまりにある、主の「大川隆法」という御名を読み上げる際に、なぜなのかわかりませんが、大声で、参列者を押さえつけるような声色を出される方がけっこうな数おられます。「なぜ、あなたが、そんなに偉そうに主の御名を読み上げるのか?御前に主がおられるというのに・・・」などと思ってしまうわけです。そういう方の祈りはえてして語尾が伸びている。「お~ぅかわっ、りゅ~うほ~ぅ」みたいな感じになっているということです。私はこれは主に対して失礼であると感じます。
へんに声色をつくっておられる方などは、もう冒頭の「ただいまより~」を聞いただけで、あ~・・・と感じます。なぜ普通に素直に発音されないのか、、、妙に、野太い声や、よくようをつけたりしておられる・・・そこには、おそらく、妖怪性に近いものがあるのではないかと、正直感じております。長年で作られたクセなのかもしれませんが、それはそれで悪い癖だと思います。
ただ、同時に思うのは、たとえ導師の方が、そういう拙いお祈りをされていても、自分は自分の祈り、自分の波動に集中しなければ。他の方の祈りの波動が気になって裁いているようでは、まだまだ未熟である。ということでございます。なので、難しいところではありますが、こういうところに敏感になり、反面教師の方々から学ぶことも含めて、自己研鑽していくことも、祈りを通しての大切な修行であると私は考えております。
そしてその祈りを通しての修行は、私たちが、いままでにない霊的な進化をとげるチャンスであるように感じております。
昔、「かっこつけるってことは、なんてかっこ悪いんだろう」という古いフォークソングがあったと思います。結局そういうことだと思います。。。これは余計だったかw

