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【第8回】『大川隆法 思想の源流―ハンナ・アレントと「自由の創設」』に学ぶ
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65ページ
★★★★★★★
労働者は主として
「私的生活」のほうに重点があり
活動は「暴力」として現れることの方が多い。
★★★★★★★
こういう記述が出てまいります。
この「私的生活の方に重点がある」というのは
自分のこと、あるいは自分の家族のことを
つまりはどうやって生活するか
飲み食い、休み、遊ぶ。
という意識で暮らすということでしょう。
精神的なる「観照的生活」には
及ばない段階であるといってよいかと思います。
そうした段階の場合
社会に対しての姿勢は
「いかに社会から自分と家族を護るか」
あるいは
「いかに社会から獲物をとってくるか」
というふうな
「好戦的なる態度」が中心となります。
だから、「暴力」へと、
たやすく転じやすい。
これは、
海外のニュースなどで
暴動があったりする景色をイメージすると
わかりやすいのではないかと思います。
生活が苦しいから
大勢で決起して
店舗などを襲って物品を強奪する
こういう景色です。
社会全体のことを考えるわけではなく
自分の生活の維持のみを考えている。
つまり「私的生活」のための「暴力」
の姿の典型と言えないでしょうか。
しかし、
★★★★★★★
対して、政治学者のほとんどが
「権力は、必ず暴力機構を伴う」
「暴力機構を伴わない権力はない」
と言うだろう。
★★★★★★★
という記述があります。
65ページの後ろから3行目です。
ここでいう暴力機構というのは
治安を維持するためにおかれる
警察や軍隊などをイメージすればいいと思います。
政治をする側の人が
社会維持のために
あるいは犯罪者をとりしまるために
警察や軍隊を持つ。
だから、
暴力と言えば
権力側にあるものなのだ。と
ほぼ一体のものとして考える。と。
警察や軍隊のような暴力をふるう組織
これを持っているから権力があるのだ。
と、こういうふうに考えるのが
一般の政治学者の考えである。ということですね。
でもアレントは逆のことを言っています。
🌟「権力と暴力は違うものだ」
これはわかりにくいところかもしれません。
これを主は、65ページ最後の行で
「要するに、彼女の言っていることは、
通常とは『言葉の定義が違う』ことを意味しています。」
と解釈されています。
「定義が違う」とは、いったい、どう違うのか、
これは次回にゆずりたいと思います。
つづく。
