7月7日の御生誕祭に向けて。

 

①人生を私物化せず、主への捧げものとする。

 

 主からお預かりして、使命を果たすことを期待され、愛され励まされ続けている私たちの人生ですが、これをどうしても「自分のもの」という錯覚をしてしまいます。

 

 今一度、この奇跡の人生は主への捧げものであることを念頭において、「美しい人生」「輝きのある人生」「奇跡の人生」を磨き上げてまいりたいと思います。

 

②3次元世界もまた、主の智慧と慈悲の結晶でできている。

 

これは、真空妙有の世界観ですが、

 

この3次元の物質世界も、すべて仏の光で顕されています。人間が、それを忘れ去っていることが問題で、与えらたる魂の自由、念いの力を、まちがって使ってしまっているからこそ3次元が汚れているわけです。

 

 物質界においても、その本来の光を見出すこと、魂修行のための舞台、道具として様々なるものが「与え切り」の状態でおかれていること。これを感じ取ることが大切だと思います。

 

 一言で「感謝」といいますが、これはとても深いものがあります。目にするもの、肌にさわるもの、耳に聞くもの、すべてに主の愛を感じとれるかどうか。ここを深めてまいりたいと思うのです。

 

 すなわち「絶対幸福」の境地であり、「無限の豊かさ」を悟る境地をさらに深めてまいりたいと思います。

 

 

③「感謝」の反対語は?

 

これを明確に知っておくことはとても大切だと思います。こないだの七の日感謝祭に参列された方々に問いかけましたら、どなたも答えられなかったので、もう一度、強調しておきたいと思います。

 

 答えは「あたりまえ」と思う心です。

 

すべてを当たり前に感じるならば、感謝はゼロです。

 

すべては当たり前ではなく、文字通りの「有り難いこと」として感じ取るから「ありがとう」となる(これは空間縁起でものごとを観るということです)

 

例えば、呼吸一つとってもそう。朝に命があることでもそう、目が見えて、耳が聞こえて、立って歩ける。心臓が動く、ものが食べられる、排せつができる。人と会話ができる。今日も太陽がのぼってくる。主のお姿を拝することができる。そのお声を聴くことができる。正心法語を読誦できる。もう限りのない「有り難い」こと。としてとらえられるか。だと思っております。

 

すべて与え切っておられる魂の親に対して、せめて、恩知らずの子供にならぬようにしたい。(今世の肉体の親にはずいぶん親不孝をしました故、なおさら、そう思う私です)

 

 

④『与える愛』は何からはじまる?

 

 これは、どうでしょうか?明確に、即座に答えていただきたいところです。幸福の科学の教えの最初の部分。経典『太陽の法』によって説かれる「愛」の箇所に明確に書かれています。

 

 「与える愛とは、まず『感謝する』ということからはじまってゆくのです。」(経典『太陽の法』p186…第3章の結論部分)

 

感謝について深めていかなければ、というのは口では簡単ですが、

実は、感謝の反対である「当たり前」の心を、日々、一瞬一瞬に、よくよく目をこらし、戒めていかなければ、ということです。

 

当たり前に思う心というのは、乾いた心、うるおいをなくした心、輝きを見失った心でしょう。その心のままに主に祈るわけにはまいりません。

 

日々、一瞬一瞬、目の前に起こる、一つ一つのことに、幼子の如く、目を輝かせて「ああ、ありがたい」「ああ、なんと素晴らしい」とかみしめていかなければ、私たちの「与える愛」は空念仏となると、思います。(詩集にある「無心」です)

 

 

 

⑤今日、この瞬間まで、何回、こころから「ありがとう」って言ったかな?

 

ひらたく言えば、そういうことだと思います。

 

主の愛を発見するたびに、思わず手を合わせて「ありがとうございます」といえる心。

 

人にあっても、仏が創られたる、その魂の営み、輝きに対して思わず「ありがとう」と思う心。

 

そういうふうに、ていねいで、細やかで、やわらかい、光に満ち満ちた魂の調べをつくってまいりたいと思います。

 

 

⑥感謝の波動の中には悪霊悪魔、妖怪は入れない

 

御生誕祭前は、やはり下からの妨害がつきものとなります。しかし、それで同じ土俵に乗っては、相手の思うツボ。

 

ことさら意識して、感謝の思いをあらたにし、感謝の思いの中に、ものごとを見、考え、語り、行動する。その感謝の磁場の中には、決して悪しき波動は入ってこれません。

 

眼をつりあげ、かたひじをはって、緊張した状態というのは、実は悪しきものは容易く入り込んでくるのです。

 

つまり、降魔という意味においても、この時期「感謝」について深めていくことがとても大切かと考えております。