雨の日の休日というのは、世界の時間が全て止まってしまったように感じる。
ざぁぁ と、心が閉じられていく心地よい雨音のみが耳に残り、取り残された空間にただ、くうん、と雨の匂いが鼻の奥に残る。
土日は大抵、出勤するので休日は平日になる。ただでさえ人の少ない平日の雨に、ますます世の中に私はひとり取り残されたような気分だ。
胸の奥に眠っていた記憶。
甘いような、少し癖のある湿気の匂いと、子供の頃のビニール長靴のつま先の湿っぽい感覚が蘇える。小さい頃、あの湿気た感覚が嫌で、長靴を履いた足の指先は丸めてもじもじしていたっけ。
ベランダに出ると庭の土が匂い立ち、露草が濡れる様子に、もうたまらなくなってしまい、まだ蕾のままの露草の花をぷちりと摘み取り、ちぎり潰してしまいたい感情に駆られる。
むっとした甘い雨の匂いと、水っぽい薄紫色に指が染まる、少しの寂しい罪悪感の中で、これが本当に私の望んでいた事なのだわ、とひとりごちる。
冷たい雨音だけが優しく私を受け止めてくれる。静かに。そして激しく。
デパートの売り子の仕事は嫌いではない。毎日、何十人という人々を観察できるのは、むしろ興味深いことだ。世の中には様々な人が存在し、息をしたり、感情を生み出したりしている。世界は無数に存在する。私が知っている世界も、未だ知らない世界も、そしてわかり得ない世界さえも。
それにそこで出会う人々(お客様と呼ばなければならない)に笑いかけたりしながら、しゃなりと接客している自分はまるで別の人格が取り憑いたようで、その感覚が何とも奇妙で癖になるようだ。
私は子供が好きではない。
しかしデパートで母親の買い物にうんざりして、売り場を走り回る子供を連れた母親(お客様)に、にっこり笑いかけて
「かわいいお子さまですこと…」
といったまるで心にもないお世辞を言うくらいの術は身につけている。
大抵母親は
「もう、うるさい子供で…」
なんて言いながら、子供のオイタは承知されたとばかりに
「このストールの色違いはあるかしら…」
なんてショッピングに没頭する。
子供を連れた母親には独特の図々しさがあるように思う。
まだ幼いから、とか子供がいて大変だから、とか、言うことを聞かなくて、だとか、理由は幾つかあるだろう。
しかし、私には寝坊していつもの電車に乗り遅れそうな人が、慌てて周囲の人を押しのけ電車に乗ろうとする様に見えてしまう。
まるで正義は一つだと主張するかのように。
しかし世界は無限に存在する。
本当のことをいうと、宇宙だって手に届いてしまうし、ただ、手に届かない宇宙も存在するというだけのことだ。
そして自分の世界の帳尻会わせに他人の世界を侵略することがあってはならない。
私もいつか、母親になったら世界がひとりになるような、そんな感覚がうまれるだろうか。
子供が悪ふざけをしたら叱ったり、イライラとしたり、穏やかでない世界があるということは、いつも私を不安にさせる。いつか大好きなはるくんとの間に子供ができて、私たちの世界が壊れるのであれば。お先真っ暗である。
無論、結婚や家庭を作ることは歴史を見ると正しい人間の営みだし、私が考えている世界が壊れてしまう不安など、遥かに上回る感動や喜びが存在するのも事実であろうけれど。
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