「別冊 音楽と人 櫻井敦司」を読了した。
手に取られた方は、写真、インタビュー、
他者からの櫻井敦司像等が豊富に語られ、
充実した内容なのは既に承知であろう。
その中で、特筆すべき記事がある。
「櫻井敦司、その声と人(談=山崎広子)」だ。
初期から「異空-IZORA-」まで
声の変遷を分析している。
声はその人のありよう全てが反映する。
考えようによっては、
声を使う職業というのは、
なかなか怖いものだ。
常に自分をさらし続ける。
自分の声を聞くのが嫌いな人は
多いのではないか。
否応なしに突き付けられるものがある。
人は他人を自分の影として見て、
耐え難いものを感じてしまう。
声もまたしかり。
ヴォーカリストは自分との直面を
余儀なくされる人種なのである。
それは、あっちゃんも例外なく。
声に現れる自分自身、葛藤が、
余すことなくこの記事に書いてある。
これはあっちゃんの戦いの記録なのだ。
私見だが、
声にひそむ苦しみを抑え込み、
でも発露されることが、
バクチクファンを、
限りなくひきつけていたのも、
また事実ではないか。
もしかしたら、
ある種の投影はあったかもしれない。
完全に一致しないけど、
重ね合わされる人生の苦しみ。
肉の奥に潜んでいて、
叫ぶのを待っていた苦しみ。
怖ろしいまでの共感とともに、
氷解の瞬間を待ち望む。
もちろん、バクチクの魅力が
それだけだなんてことは、
不敬に価する。
だけど「異空-IZORA-」は違うのだ。
前に書いた記事に現在のあっちゃんの
たたずまいが好きだ、
と記した。
それはとりもなおさず、
「異空-IZORA-」のあっちゃんを指す。
当時は今回の記事を読んでいない。
我ながら奇妙なことだと思う。
「異空-IZORA-」は死後入手した。
なので、ツアーには行っていない。
映像で後追いしているが、
それでも、
なんてすてきなんだろう、
と感動する。
もちろんアルバムも。
記事を読んで、謎は解けた。
「今回デビュー当時から『異空-IZORA-』に
至るまでの声を聴かせていただいて、
<この人はこんなにも自分を肯定するようになったんだな>
という感慨があります」
「これだけ葛藤して、
いろいろ試行錯誤を繰り返しながら、
今の境地に至った状態の声を
作品として残されたことは、
すごく救いでもある」
(以上、別冊より引用)
すべて良し。
神は七日で世界を作り、
こう漏らした。
櫻井敦司は、
57年かかったのか。
一つの歩みを
ひとつの宇宙を。
寂しさは海のように深いのだが、
それをしのぐ水量で、
感謝があふれ出る。