久しぶりの本郷だ。この図書館は心が落ち着く。

 

昨日は連休の最終日を堪能していたが、急に塾の緊急代講を頼まれてしまった。全く勝手がわからない状態だったのでかなり戸惑ってしまったが、授業範囲は正規のクラスで行ったものと何ら変わらないので、反省点も踏まえつつわかりやすい授業が出来たと考えている。授業アンケートでは「満点に近い授業」と書いてくれた生徒もおり、自分の実力が普段の教室を離れたところでも通用するということの一つの証明となって自信が出た。

 

一方で、やはり全く別のクラスであるがゆえの疎外感はとてつもない。元々うるさいクラスだと聞いていた一方で、皆緊張して明らかに静かであった。すでに自覚はしているが、私の外見は人に威圧感を与えるようだ。180センチ超えの男が昭和仕立てのスリーピースの一張羅を着ていたら威圧を与えるのも当然かとは思ってしまうが、やはり少し哀しいところもある。また、おそらく私の授業は「下位を伸ばす」授業ではない、というのも明らかになった。私の授業目的はただ一つ、生徒の入試得点の最大化であるが、今の授業では得点の平均値は上げられても中央値は上げられないのではないか、という不安はある。

 

しかし、これはある意味授業における永遠のジレンマであり、そもそも上位層しか東大に受からないということを考えれば、明らかに中上位層にターゲットを絞ったほうが組織として賢明だ。下位層の成績の悪さの理由は極めて単純で、「勉強をしていないから」である。塾に来るような家庭環境で、生活に困窮しているということはまずないし、あるとすれば心理的な要因しかない。私もかつてはこうした「心理的要因」に苦しめられたため、その内容は容易に推察できるのだが、残念ながらこれは「弱さ」という一言で片付けられてしまう。しかも、このレッテルは私が貼っているものではなく、競争社会の構造、合理的選別装置たる受験という構造そのものが要請しているのだ。

 

私はこうした生徒を見捨てたくないがために講師になったが、彼らはそもそも「考える」つもりがない。よって、如何に効率的に得点するための思考法を伝えようとも、それが全く伝わらないのである。これは一方向授業の限界でもあるから、私は積極的に生徒に質問することで脳みそを働かせるように仕向けているが、これらのインプットは大量のアウトプット=宿題によって初めて成立する。この自助努力だけは、彼らの動機に頼る他ない。動機づけは様々に試みているし、その動機づけも極めて誠実な言葉で行おうとしている。受験に意味などないということ、受験の学問に意味などないということ、そもそも自己目的的な学問で外的な成果を求めること自体が本質に反するということなどを伝えようとしている。が、このメッセージが伝わるためには、生徒が自分自身の人生に真剣に向き合い、私を信頼し真剣に向き合っている事が前提となる。そして、往々にして私の彼らに対する思いと、彼らの私に対する思いというのは大きな非対称がある。これらも全て、自分が生徒だったからこそ痛いほど理解でき、その障壁はほとんど乗り越えられないだろうということも理解しているのだ。

 

一方で、これらは全く今の日常に対する満足を覆すようなものではない。むしろ目標としてポジティブに捉える類のものであって、ここ最近はかなり毎日にメリハリが出てきている。依然としてサークルなどは出来ていないが、そろそろ怪我の回復とともにテニスもできるようになるだろう。医師に確認が取れれば、今シーズンでもスキーに参加できるかもしれない。学部の人たちはみな優しく、非常に健全な関係が築けている。孤独でいることも、最近は大して大きな悩みにならない。孤独に対する嫌悪感は単なる外的な規範であったことがわかってから、毎日が充実している。SNSを辞めることの効用がここまで大きいというのは驚きだ。

 

しかし、やはりさらなる刺激を人は求める。そろそろ、大きな旅行がしたくてたまらない。ドライブに行きたいのだが、誘う相手がいないというのもまた真なのだ。まあ、独りで行くというのも悪くないのだが。そして、学生中に海外放浪をするという夢も叶えられていない。もしこのまま就活に進むことになれば、3年の夏は就活で埋め尽くされてしまう。すると、休学でもしない限りこの夢は叶えられない。休学には未だに抵抗があるし、大学院に進むという選択も全然あり得る。とにかく、このまま社会に出てしまったら流石に人生がつまらなくなりそうだ、という不安がある。1年の頃は気ままに過ごしたが、後もう1年くらいモラトリアムを楽しみたいものだ。