皆何を求め生きているのだろうか。


求めたものを得て満足しているのだろうか。

又、求めている事や物はそう簡単に手に入るのだろうか。

求め歩いた先に、求めていなかった事や物が待っていた時にやはり絶望するのだろう。

このようなことは極めて虚しいことである。

では、何のために求めているのか。

となると、人が何故求めるのか一貫性が出てくるように思える。

結局、皆幸せになりたいだけ。当たり前である。

幸せを夢見て色々手段はあるが、事を無そうとしたり、物を買ったり、友達と時間を共有したりしている。

しかし、現実はどうであろうか。
我にふと返ってみると、妙に虚しさが残りやし無いだろうか。

果たして本当の意味で満たされているのだろうか。

満たされていると思い込んではいないだろうか。

しかもその思い込みは、たちの悪いことに無意識の可能性が高い。

だから、なかなか自分でも気付きにくい。

そうなると、皆幸せになりたく色々な手段を用いているが、満たされぬままただ欲望だけを永遠と求めている亡霊のようにも思える。

自分が何者かも分からずただひたすらに求めさまよい続けることになる。

では、亡霊と本当の意味で満たす人間との致命的な違いは何か?

それは、まず自分を知ろうとするかしないかである。

大概人は自分を正当化させる。
まず、この問題をどうにかせねばならない。

正当化は一種の甘えであるが故に、本来の自分のことは一番自分が可愛いと思っている。


だから正当化させる。

自己正当化は歪んだ自我を形成させる原因である。

歪んだ自我は歪んだ願望を生む。

そもそも、歪んだ自我=偽りの欲求である。

偽りの欲求は、本心が無意識により隠され発生される。

それでは、いつまでたっても真実の欲求は沸いてきません。

ではいかに真実の欲求を得るに近づくかというと。

自分をどれだけ客観視し、その思い込みの呪縛から解き放つことが出来るかである。

要は、自分に疑いをかけ自問自答し、繰り返し繰り返し検証していくことに限る。

その時の判断の基準になるのが感情である。

例えば、自分の言っていることややっていることと感情がマッチしていなかったりする。又は、すでに思い込んでいる状態であると違和感として残る事がある。

もしくは、少なからず後々罪悪感等が生じる場合があったりする。

恐ろしいことに、それすらも無かったこととして、その感情をかき消し自己正当化させるのである。

このような経験を振り返って検証する必要がある。

そして、大事なのがそこで出た検証結果が論理だてれるかと、結果に対する素直気持ちがなければならない。

このサイクルを続けていくことにより、本来の自分が分かり、より研ぎ澄まされた自我を築き上げることが出来る。

自分らしい自分にならなければ、分かりやすく言えば、本来ハッピーエンドで終わるはずの「醜いアヒルの子」の逆のような事が起こり得る。

要するに、主人公のひな鳥が自分が白鳥になれることを知れれば幸せになれるのだけども、気づかぬまま一生終えた時には主人公は後悔しても仕切れなかったでしょう。



これにより、盲目が如何に自分の人生を見えない物にするかと同時に自分を知ることがいかに大事かが伺えることでしょう。


そこまで来てやっと幸せとは何かを考え直す事が出来、必要性が出てくるのではないかと思う。

俺は自分の人生である『自分』と言う操縦者を今よりももっと知る必要性を感じている。

その先に真実の幸せが待っているのだと。